自己紹介
初対面の人には紹介してくれる人がいなければ、「○○の××です。……」と自己紹介してから話を始めます。聞いた方では聞きたいことがあればその人に質問できますから、初めの自己紹介は短いので十分です。
十人以上が初めて集まった時には、次々と自己紹介をします。質問を割り込ませにくいから、やや長めに紹介するほうが親切です。
このごろは「○○の××です。よろしくお願いします。」とだけ言う人が多くなりました。しかも、大事な「○○の××」の部分は小声で恥かしそうに言い、あとの「××です。よろしくお願いします。」は大きめの声になります。だから、所属や名前を覚えにくいのです。
自己を紹介するのですから、自分の名前などを正確に相手に伝えることが目的のはずですが、自己紹介が儀式化してしまいました。
そこに「恥ずかしい」とか「自分の番が早く終わればよい」と考えて、名前などを小声で言うのですから、聞き手に伝わらなくなるものです。後半の定型部分は「さあ終わった」と安心して、大きめの声で言うものらしいのです。それで「よろしくお願いします」が次々と聞えてきます。聞き手には話し手の声の状態以外は、何の情報も得られません。
親が幼な子に対して何かを伝えたあとで、理解できたかどうかの返事を求めるさいに、「ハイ」とはっきりと答えれば「良いご返事です。」とほめることが多くなっています。大きな声でハイと言うことが重要視されて、本当に理解したかどうかの確認はおろそかになります。
この習慣の影響によるのでしょうか、自己紹介では「○○の××です。よろしくお願いします。」と言うことが大切にされます。自分が何者であるかを伝えることはどうでもよくなっています。
聞き手に自分のことを覚えてもらうような努力の第一は、ゆっくりと正確に話すことであり、第二には、自分の経験、現況、抱負などを付け加えて聞き手に印象づけることでしょう。自分を理解させ、相手を理解することが、人間関係の基礎です。
年賀状
そろそろ年賀状の季節となります。このごろは郵便が減って電話が通信の手段となっていますが、郵便のなかで年賀状だけは個人の通信として大きな割合を占めています。
毎年、500枚余りの年賀状をいただきます。発信を加えると、1000通余りの年賀はがきが行き来することになり、年末年始ではかなりの作業となっています。 いただく年賀状には、近況や新年の抱負が詳細に書かれたものもあれば、「謹賀新年」と住所氏名だけを印刷した簡単なものもあって、送り主の人柄を浮かび上がらせています。
今春(注・平成5年1月)いただいた年賀状の束を整理したところ、情報の受け手という立場で考えて、新情報を受取ったと判断できるものは約45%でした。「新情報」があるというのは、転居、家族の状況、前年の経験、これからの抱負などを具体的に書いたものです。
丁寧に書かれていても、「旧年中は……。本年もよろしく……。」と型通りの文からは新情報が得られません。年賀状が届いたという事実や、同じ住所というような情報は受取りますが、手間がかかっているわりには、得るものが少ないのです。
年賀状は、明治時代に交通機関が発達し、広くなった交際範囲に対処するものです。通信手段を使った「年始回り」で、歴史はそれはど長くはありません。
年始回りとは、特に情報を伝えようとするものではなく、年始の挨拶をすること自体が重要なのです。その延長線上にある年賀状も、何の具体的情報を含まず、届いたという事実だけが重要なのだということになります。
習字の手本にある年賀状は定型文だけですし、年賀状の印刷見本には具体的事実を含まないものが多いのです。家族の写真を載せ、転居通知を兼ねるほうが、新しい形式の年賀状なのです。
年賀状を年始回りの代用とすると、正月に会うことが確かな場合には年賀状が不要ということになります。いただいた年賀状の送り主を見ると、そのうちの約15%は1月15日までの間に会うはずの方でした。すると、これは年始回りの代用でなく、正月の習慣となっているのです。あるいは、12月初めに年賀状を準備するので、正月の予定が未定なのかもしれません。
限られた機会を有効に使い、必要な情報を伝えるという立場からは、年賀状は何かの情報が含まれているほうが良いことになります。本学園の建学の精神からいえば、何かを伝えようとする年賀状が良いでしょう。特に、受取る枚数が多い場合には、出席をとるような気持ちで年賀状を数えるよりは、近況や抱負が書いてある年賀状を見ているほうがはるかに楽しいのです。
来春の年賀状は、その辺の事情を考えて、出し方を改めようかと思っています。