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短期大学創立50周年 記念式典 式辞 2000.10.14.

森本理事長挨拶

理事長 森本晴生


 本日は、東京文化短期大学の創立50周年記念式典に、このように大勢の方々にお集まりいただき、ありがとうございます。今回は、内々でという考え方で、短期大学の今の教職員、在学生、以前に教職員、学生であった方々、学園の役員、評議員、各学校、後援会、同窓会などの方々にお集まりいただき、とくに同窓会の短期大学部会とは一緒になって行うことで進められています。

 本短期大学は昭和25年(1950年)に創立されました。短期大学制度自体もその年に始まりました。そちらの50周年記念式典は10月下旬に行われると聞いております。昭和25年には私立短大132校、公立短大17校、合わせて149校が認可されました。50年経った今では、私立472校、公立53校、国立19校で合わせて544校で、50年前と比べると3.6倍ぐらいに増えています。
 昭和25年という年は、太平洋戦争で日本が負けてから5年経った年で、この頃に新しい制度がいろいろとできました。先ほど本短期大学は昭和25年に創立されたと申しましたが、その前には東京女子経済専門学校があり、この専門学校が学校制度の変更の中で、短期大学という形で生まれ変わったものであります。この少し前に、付属の高等女学校が中学校と高等学校に分かれました。幼稚園ができ、小学校ができました。
 これらの学校は東京女子経済専門学校の付属として、略して経専の名前が付いて、東京経専高等学校などと呼ばれていました。それが、短期大学ができたときに、学校の名前も東京文化が頭につくようになりました。
 学園のほうは、1年遅れて昭和26年に「学校法人東京文化学園」ができました。正確に言うと、それまでの、財団法人であった「東京女子経済専門学校」が組織変更で学校法人となったものです。
 本短期大学は家政科の単科の短期大学として始まりましたが、いくつかの展開がありました。一つは医学技術研究室の設置で、当時の理事長の橋本寛敏先生が聖路加国際病院の院長であり、日本にも医学技術を専門に担当する人を養成する必要があると、当時の短大学長である森本静子先生に進言し、昭和27年にできたものです。これは、昭和30年に医学技術学校として独立し、今の医学技術専門学校になりました。
 もう一つは学校給食で、短期大学のできる1年前の昭和24年に、専門学校、やがて短期大学の調理学の教員の方々に協力いただいて、小学校の給食が始まりました。この昭和24年に学校給食をしていた小学校は、公立18校、私立1校(東京文化小学校)だけでした。やがて、幼稚園、中学校の給食も行うようになりました。昭和32年にはカフェテリアができました。これは、今、短大の栄養士コースが実習に使っている第一カフェテリアです。その後、給食は学園事務局が担当するようになっています。
 昭和25年の11月、つまり短期大学ができた年の秋に、短期大学に児童研究所ができました。幼児や児童の教育相談をする機関で、本学園の幼稚園、小学校、中学校だけでなく、近くの幼稚園などの子どもたちを対象にして、毎年1600件ぐらいの相談をして、社会に貢献していました。この児童研究所は、担当の竹田俊雄先生が昭和40年に短大をお辞めになったときにお休みとなり、再開されないまま今日に至っています。
 昭和26年9月には、短大の近藤宏二先生が中心となって、学園に保健活動が始まりました。全部の学生生徒に健康手帳を配り、日常の健康管理を進めました。今、また問題になっていますが、当時は結核を防ぐことが大きな課題で、これにも取り組みました。

 一口に、50年といいましても、社会環境が違ってきています。高校への進学率が伸び、高校卒業生の進学率も伸びました。家庭のなかでも、電化が進んでいます。今では、電化は既に当然のことで、死語(死んでしまった言葉)になっていますが、50年前は、照明器具といえば、蛍光灯はなく、水銀灯もなく、白熱電灯だけでした。学内に公衆電話はもとより、全体で電話は2本だったと思います。テレビもありません。
 冷房はもちろんなく、暖房は石炭ストーブか火鉢でした。短大生ではこの火鉢を見たことはないのかもしれません。木炭を燃しての暖房で、一酸化炭素中毒が起こりやすいものでした。
 学校給食が始まったときで、栄養の不足が問題となっていました。本短期大学では栄養士の養成を行い、学校給食に協力するなど、栄養の改善に努力してまいりました。
 このように社会は変わりました。今では変わり方が早くなっています。本短期大学は50年にわたり、あるいは、その前の女子経済専門学校、さらに前の女子文化高等学院から数えると73年にわたり、時の進みとともに自由に伸びていこうとする女性の教育に当たってまいりました。
 独自性を持った短期大学として、在学生、同窓生のご意見を聞きながら、東京文化短期大学は進んでまいりたいと思っております。皆さまのなお一層のご支援をお願いいたします。




短期大学創立50周年 記念式典 講演 2000.10.14.

短期大学の創立をめぐる話

森本理事長講演

理事長 森本晴生


 ご挨拶は式典の中で申し上げましたので、ここではタイトルを少し柔らかくして、少し具体的なお話をしたいと思っています。今日、ご列席の方のなかで、50年前に東京文化短期大学が創立されたときに、本短期大学または学園の他の学校にお出でになった方は数人だと思います。50年は短いようですが、50年前のことをご存じという方はそれほど多くはありません。
 実は、私もその中に含まれています。私は50年前、つまり短期大学ができた年に、東京文化小学校に入学しました。その当時の小学校は、こちらの敷地にありましたので、小学生として短期大学の校舎に入ったことは何度もありました。今でも、短期大学の初めの頃の卒業生からは、小学生扱いをされているような気がいたします。  短期大学の校舎で、50年前からずっと使っているものは、1号館、つまり新渡戸記念館だけです。この記念館も、照明器具を変えたり、間仕切りを変えたり、水道や電気などの設備を入れ替えたり、外壁を変えたり、窓を変えたりしていますが、昔の雰囲気は残っています。
 50年前には、この体育館のところに木造2階建ての2号館があり、中庭の楠のあたりには木造3階建ての3号館がありました。そのほかに、高校、中学、小学校、幼稚園の木造校舎もありました。木造の校舎は50年のうちに取り壊され、鉄筋コンクリートの校舎になりました。
 敷地も狭く、今の2号館(事務所や第ニカフェテリアがある部分)は他人のものでしたし、全体で今の半分ぐらいでした。2分歩くと畑があり、5分歩くと田圃がありました。
 50年前は地下鉄「丸ノ内線」はなく、中野駅から15分歩くか、新宿か荻窪から都電か都バスで通いました。都電は単線で停留所のところだけが複線で行き違えるようになっていましたし、都バスは木炭バスで、後ろにお釜がついていました。

 ところで、東京文化学園には3Hのモットーがあります。3H精神とも呼ばれます。活く頭、勤しむ双手、寛き心と言われているものです。左側の壁にある校歌にも歌われています。
 一方で、教育とは知育、徳育、体育の3つ、つまり知能を高め、知識を豊かにすること(知育)、人格−徳−を育てること(徳育)、体を成長・発達させること(体育)の3つをあげることもあります。
 3HもHが3つで、これに似ています。順番は違いますが、活く頭は知育、勤しむ双手は体育、寛き心は徳育に似ています。しかし、同じではありません。
 本短期大学が創立される前にあった東京女子経済専門学校(その前には、東京の文字が付いていなかったので、女子経済専門学校の名前のほうがとおりがいいかもしれません。)は、新渡戸稲造先生を初代校長に迎え、森本厚吉先生が初代理事長として、昭和の初めに設立されました。このお二人には共通点がいくつかあります。
 お二人とも幕末から明治の初めの頃にお生まれになりました。新渡戸先生のほうが20年ぐらい年上です。
 ともに養子となりました。その当時は、家を継ぐということが大切だとされていましたから、あとを継ぐ男の子がいない家では、他の家から男の子を養子に迎えました。あとからできた親子関係ですから、いろいろと面倒なことがあったと思います。嫁入り先で、嫁と姑がうまく行かないというようなものです。
 ともに札幌農学校で学びました。ここは外国からの知識が東京の学校よりも沢山入ってくるという学校です。その後、ともにアメリカに渡り、ジョンズホプキンス大学で勉強しました。その後、ともに何回もアメリカやその他の国を訪問しています。今ではアメリカ旅行や、アメリカ留学は簡単なことですが、当時は、飛行機はなく、電話はなく、船で太平洋を渡ったのです。
 このようなことからお判りのように、本学園の3H精神はアメリカ的な考え方によるもので、日本の知育、体育、徳育とは違った考え方です。
 活く頭とは、知識を溜め込むことではなく、持っている知識を使いこなすこと、頭を働かせて知識を活かすことをいいます。知識は知っているだけでなく、それに対して自分はどのように考え、いろいろな知識を組み合わせたら何ができるかを考え、それを実際に使えるようにすることです。
 勤しむ双手とは、身体を使うとか、体育をするとかの意味ではなく、考えた知識を実際に使ってみることです。
 寛き心とは、頭と両手を動かすときの基本には、寛い心で支えていなければならない。心がこもった行動でなければならないということです。
 校章に3つのHが書いてあります。よく見ると特徴があります。Hの文字は、上に2つ、下に1つです。ふつう、3つを書くと上が1つで下が2つのほうが収まりがいいのです。たとえば、「口」という文字が3つで「品」になり、「木」という文字が3つで「森」になりますが、これは上が1つです。3Hは下が1つですが、少し大きくなっています。うえのHは、頭と両手で、下のHは心で、大きな心が活く頭と勤しむ手を支えているのだ、という説明になっています。
 最近、カウンセリングとか、相手を思いやる心とかが、話題になっていますが、本学園の寛い心とはそのようなことをいっているのです。つまり、時代の先取りをしているのです。
 ところで、本学園のあちこちに校章が掲げてありますが、1つだけ3Hが逆さま、つまり下が2つになっている表示があります。どこにあるかご存じでしょうか。浅間高原寮の本館の外側、玄関の上にあります。お作りになった方が間違えたようです。こんどおいでになったときに確かめてください。
 東京文化タイムスの題字の地紋(文字の背景の部分)にも3Hが散らばっています。実は、この3Hが上下さかさまになっているのに10年ほど前に気付きました。今は直っていますが、古いものをお持ちでしたら、見比べてください。

 学校教育の基本を決めている法律に教育基本法というものがあります。この法律では個人を大切にして、家庭とか、社会とか、国とかを大切にしないから、これらを大切にするように教育基本法を改正しようとする動きがあります。
 日本では個人主義は利己主義と同じようなもので、自分のことばかりを大事に考えるので、良くない考え方だという理解が多いようです。本来の個人主義は、どの個人も尊重しようということで、自分を大事にするように、他人も大事にしようということです。そうすると、家庭や、社会や、国も、大事にしようということになります。新渡戸稲造先生も、森本厚吉先生も、アメリカ滞在の経験から、日本的な個人主義でなく、アメリカ的な個人主義に出会い、一人一人の人格を認め、一人一人の能力を伸ばしていこうということを学校のモットーにしたのです。
 相手の人格を認めるためには、互いに批判し合うということが必要です。批判するというと、「あれはだめだ」というように、相手にケチを付けるという意味で考えがちですが、アメリカ的にいうと、「あれはこの意味で違っている」とか「昔の環境での話を、今に当てはめている」とか、かなり具体的に言わなければなりませんし、言われたほうはその批判に反論して、批判に対する批判をしなければなりません。互いに批判することによって、互いに進歩しようというものです。
 「叱る」という言葉と「怒る」という言葉は同じ意味に使われることが多いのですが、「叱る」のは相手の間違いを指摘して注意することで、「怒る」のは自分が感情的になることを言います。相手を尊重するというとき、「怒る」のは適当ではありませんが、「叱る」ことは必要です。

 ところで、新渡戸先生は昭和8年、短期大学ができる17年前にカナダで亡くなられました。10月16日で、この学園の創立記念日になっています。今日は、創立記念日に近い土曜日ということで、短期大学の50周年の式典を行う日といたしました。
 森本厚吉先生は、昭和25年の1月、つまり短期大学ができる2か月前にお亡くなりになりました。そのために、短期大学ができたときは、森本厚吉先生の夫人である森本静子先生が学長に就任されました。静子先生も、アメリカでの生活経験があり、アメリカ的な教育を進められました。
 静子先生は卒業生の間で厳しい、特に躾に厳しいという評判がありました。誰かを呼び出すと、足の爪先から頭の上まで、じっとご覧になります。そこで、靴下が曲がっていますとか、ブラウスにアイロンをかけましたか、爪が伸びていますとか、注意をされました。これは、孫に対しても同様で、孫はおばあさんに会いに行く前に、服装に気をつけたものでした。
 今は医学技術専門学校のあるところに桃園寮という学生寮がありましたが、静子先生はその敷地の中に住み、親から離れて暮らしている寮生を特にかわいがり、いっしょに食事をする機会が多かったようです。
 やがて、厚吉先生・静子先生の息子である森本武也先生が副学長に就任し、昭和39年には学長になりました。武也先生は、5歳の時に両親についてアメリカに住んでいましたので、アメリカ的な発想を持っていました。戦後になって、2回、研究や調査のために、アメリカやヨーロッパに出掛けました。
 卒業生の年代によって、この武也先生(私の父ですが)を副学長先生と呼んだり、学長先生と呼んだりしていらっしゃいます。呼び方で、その方の年代が分かります。

 個人を尊重するということは、短期大学としても他の短期大学を尊重することになります。本短期大学は、他の短期大学と違った存在であっていいし、そうであるのが当然だということです。3H精神を持っているのもその一つです。ただ、3H精神と口に出して言ったり、紙に書いたりすることが大切なのではなく、その内容を理解して伝えていくことが大切なのです。
 食事を作ることは、知識を生活で活かすことであり、3Hが揃わないと美味しくなりません。栄養のバランスがとれているだけでなく、作ってあげるだけでなく、心を込めていなければ美味しくはならないのです。調理は、森本静子先生の得意とする分野でした。これも3H精神の現れです。
 数人で1週間ずつ泊まり込み、栄養を考え、自分たちで食事を作り、1度は先生を招待するという、実習館(実習の家)を学校内に設けていた時期がありました。学生の中には戸惑いもあったようですが、3Hを体験する教育でした。
 立食パーティーをすることも本短期大学で教えていました。主人役となって客を招待し、客を迎え、招待された客は、特定の人とだけ長く話さないで、できるだけ大勢の人と接することを教えられました。学生だけでなく、本学に外からおいでになった先生方も参加するので、とまどいながらも、楽しむようになったそうです。残念ながら、学生数が増えた時期に立食パーティーの教育はなくなりました。

 短大の初期に北海道旅行がありました。これは教員が引率して、北海道を旅行してまわるものです。11日の日程で、昭和29年から38年まで行われました。これは多分、アメリカ旅行ができない時代だったので、日本の中でアメリカに近い雰囲気を持つところであり、新渡戸先生、森本厚吉先生が学んだ札幌農学校があった北海道を目的地に決めたのだろうと思います。各地で同窓生に会い、日頃は行かれないところに行き、見られないものを見て、考えようと言うことで、いつもとは違う新しい体験をして北海道を回りました。
 10年ほど前だか、北海道旅行を復活させたらという話がありました。私は、これは違うと思いました。すでに外国旅行ができる時代になっていましたから、海外の体験をするような機会を作るべきだと思いました。その後、海外語学研修という形で復活し、イギリスで2回、ニュージーランドで1回行いました。今年もニュージーランドに行くことになっていましたが、残念なことに参加希望者が少なくて取り止めになりました。
 今の計画は、海外に2週間滞在し、ホームステイをしながら、大学で英語とその地域の文化を学び、週末の小旅行も含めて異文化の体験をしようというものです。普通の海外旅行は、どんどんあちらこちらを見て回り、毎晩違うホテルに泊まりますが、同じ家庭に2週間滞在することは、同じもののいろいろな状態を見ることができます。
 雨が降ったり、風が吹いたり、家族がそろったり、誰かが出かけたりします。初めての経験なので、困ることがいっぱいありますが、ほとんどのものは通り過ぎるといい思い出になります。大切なことは、基本的な信頼関係と、自分の意見をはっきり言うことです。
 私は10年ほど前から外国旅行に行くようになりました。親の影響なのでしょうか、ある意味では日本にいるときよりも気楽な雰囲気がします。私はこのホームステイが好きで、最近の外国旅行では、ホームステイが8割で、ホテルに泊まるのが2割ぐらいになっています。各家庭で、とてもいい、3Hの体験をしています。
 自分の意見をはっきり言うことは、日本では、目立つとか、出しゃばるとか、慎みがないとか言われ、良いこととはされていないようです。しかし、国際社会のなかでは、相手の立場を理解し、相手の考えを尊重し、そして自分の意見をはっきりと相手に伝えることが重要です。相手を理解するためには、相手の意見を良く聞くことが必要ですし、自分の意見を正しく伝えて理解してもらうことが必要です。
 今日お集まりの方々は、年齢では80年近い開きがあります。育った環境も違います。同じ日本語で話しても十分に話が伝わらないことがあります。相手を尊重し、自分も理解してもらうということが、本短期大学で50年前に行ってきた教育です。今後もこの趣旨が活かされることを願ってやみません。


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