トミソング秘話


特別掲載『トミさんが語るトミソング秘話』

ニュースでは載せなかった 対談 も新しく含まれております。
読み物としても絶好であります。


『トミさん、トミソングを語る』

1991年9月26日 収録
(これは当日録音されたテープから書き起し編集したものです。)


  1. 「はじめに」

ええっとね、話しは『山々高く』が一つ。
それからねえ『美しい湖水よ』が一つ。
それからね、『ラッタタタッタ朝だ』と『スタンツ』が込みに成って一つ。
ってのは、その晩に二つ出来ちゃったんだ。

--1938年ですね、どちらも。

森井さんしか生まれてないや。
37年てのが『山々高く』しかないの。

それでねアタシそんなに上手に作文書けない。
一生懸命やってるんだけどね。
あのさ、英和にオヌマ先生っていらしたじゃない?
ねえ?オヌマ先生も学荘のキャンプマザーだったんだよ。
あれ?知らねえな?
あのね、オヌマシモンて居たよ。息子が。
モンちゃんはね、ちゃんと学荘のメンバーになったよ。

--ええと、英和の事務長さんみたいなお仕事やってた…。

おや?英和の国語の先生だよ。

--トミさんね、トミソングって何でこしらえようと思ったの?

………と言う訳でやっと本題にはいるのでした(@×);


  • 最初のトミソングの誕生『山々高く』

    1936年8月。これは昭和11年です。東京Yの山中湖のキャンプ・サイトで全国中等学生修養キャンプが行われ、私は音楽リーダーとして参加した。東京Yの住田明治氏の紹介だった。これアキハルさんとお読みするのかメイジさんだかともかくメイジさんで行きますからね。つぎの年ね、1937年キャンプ協会主催のキャンプ指導者講習会を開くのだが音楽の講師をやらないかと、これも住田氏から話しがあって引き受けた。講習が終わると今度は野尻学荘の音楽リーダーをやらないかと、これもまた住田氏からの話しである。講習会は一種のテストの様なもので、合格したんだろうと思った。私はキャンプが好きだから引き受けた。

    そう言うわけで私と野尻学荘はコネがついた。

     --最初は長野先生のご紹介じゃなかったのね?

    はい、そうじゃござんせん。
    そいじゃ、もう少し言うとね、これは書いてないけど、学荘に関係ないと思ったからね。
    あのね、広島Yの総主事、それから神戸Yの総主事、大阪Yの総主事をやった奈良常五郎さん。
    彼と私は前橋でおんなじ教会だったの。
    そんで私のオヤジは早くして死んだんだけど、私のオヤジが会計をやっていて、死んだ後やったのが彼のオヤジなの。
    彼のオヤジのが歳が上だったの。
    私のオヤジも奈良くんのオヤジも、弓町本郷教会に海老名弾正(えびなだんじょう)先生の副牧師をしていたノグチスエヒコと言う牧師さんがいて、その薫陶を受けた。
    それで何と私は、オヤジが6年の暮れに死んじゃったもんだから、それで白山の京北、東洋大学の、京北実業に入ってノグチ牧師のお家から通ったの。
    そんでノグチ牧師はいろいろありまして、今の私が属している巣鴨ときわ教会の牧師になられた。
    そうすると奈良くんは前橋中学から旧制浦和高校。
    そして今で言う東大だな。東大の仏文科。
    フランス語かな? 仏文科を出た。
    そんで社会科学なんかをやった。
    そいで昭和のはじめだった。
    そいで彼は結局、斎藤惣一先生の同盟のほうの主事補に採用された。
    それで後、主事になった。
    さて、アタシはいろいろあったけどエ〜ット、あったけれどだよ、ウ〜ンとねえ〜。
    国立の音楽学校を昭和11年。
    この山中の修養キャンプにリーダーで行ったその年の3月卒業して、4月から自由学園の男子部の助手になったの。
    アタシの恩師の山本直忠先生。
    ほらCMの♪おおきいことはイイことだ〜、の。
    あの人のお父さんに弟子入りした。
    そして国立であの先生に習った。そして卒業した。
    そしてツネさん、マサオさんっていう間柄だから「ツネさん、ボクね、こんど卒業したんだけど、もしねキャンプのほうで何かあったら紹介してね。」って頼んだの。そうすると早速「こないだの話しね、少年部の住田さんに話しておいたから。」と言うので私と住田さんが顔を合わせて、そして「私は野尻に行くけど、あなたは山中のこう言うキャンプの音楽リーダーしてくれませんか?」って。
    それで行くことになったの。
    野尻学荘に行てみたら、ナガポンとヌカポンがいた。
    あの二人は副荘長で小林弥太郎先生が第6回のときにゼネバで、世界の少年教育の,なにかリーダーって言うかな、その専門の人の集まりがあって、そこ行かなきゃなんない。
    で、荘長が行くについては副荘長をおかなきゃなんない。
    そんで、第6回のときにナガノとヌカダをポンとおいた訳。
    そして額田は水上ですよ。
    彼はやっぱりスポーツマンだったわけ。
    長野のほうは事務もできるし、それから教会生活を地道にやってる人で、それから小林弥太郎先生とおなじ本郷中央教会。
    そう言うことで第2回からだと思ったよ、長野さんを引っ張ったのは。
    第1回からヌカポンは来ている。
    ヌカポンは山中のキャンプの時から少年部とか、体育の方とも関係あったもんだから、そっちのほうから山中から野尻にズーっと引っ張られたわけね。


  • 「野尻学荘との出会い」

    第6回ですよ。それが昭和12年。1937年。
    そのときはもうアタシは来てたわけ。
    だから1936年の時に住田さんと、それから東京Yの少年部とアタシがコネがついたわけ。

    --それでは講習会(1937)と同じ年に野尻学荘にいらっしゃたの?

    そうなのよ。
    だからね、住田さんもね、なんだか知らないけども山中で頼んでみたらコレコレシカジカと言う報告があったんだろうね。
    そいでそいつをキャンプ指導者講習会でやらせて見て、もし良かったら学荘に引っ張るかってなことじゃなかったかと思うんだよアタシャ。 --森井注によりますと、鈴木栄吉氏が1934年に引退した後に引き継いだのが住田氏ですね。少年部主事として。

    だからこれはね、どうしてもアタシは山中のことから書き起こさないと、アタシと学荘との関わりって言うもんがね…。
    なんて言うか理解されないと。

    --ボクはてっきり長野先生が、オイ富岡って、連れてきたんじゃないかと。

    そ〜じゃござんせん。

    --英和はその後なんですね。戦後のことで。

    戦争中に、アタシはヌカポンの帝国女子医専のほうの音楽の先生にさせてもらってたの。それが、いまの東邦大学の医学部ね。
    このことをね、どうして少年部とアタシが結び付いたとかと言う話ししないとトミソングの話しが始まらないの。

    --住田明治さんはそのころ少年部の主事ということではあったんだけど、もっと学荘にのめり込んでいたんじゃないでしょうかね。

    --でも、住田さんはそんな長く一緒に学荘やってませんでしょ?

    あのね、第6回でいなくなっちゃったよ。それでね第7回から一色さん。

    --住田さんはもう亡くなっていらっしゃる。

    --大同メタル工業という大会社の専務さんで、引退なさってからお亡くなりにね。この方はその後、名古屋Yの総主事になるんですね。

    --それで少年部との繋がりができたと。1937年の第6回からね。

    うん、もう少し学荘と関係ないこと言えばね、住田さんが名古屋でもって秘書につかっていた澄江さんが奈良さんの奥さんになった。
    すごい美人なんだ。
    澄江さんとはそう言う関係。
    だから彼の結婚式のとき住田さんに久しぶりに会った。

    --じゃあ、澄江女史は名古屋の人?

    そりゃ知らないけどね。

    --でも総主事秘書だったんでしょ?

    うん、そう。
    住田さんの秘書。
    で、奈良くんはズ〜と同盟だったから、東山荘の番頭してた。
    なんだか知らないけど。
    だけども彼女はね、戦後すぐにアタシたちの巣鴨ときわ教会に籍はあったのね。奈良くんと二人ともね。
    だけれども広島Yにいったでしょ?
    そいで、むこうのどっかの教会いったでしょ?
    そいから神戸Yでしょ?
    大阪Yでしょ?
    それで戻って来たとき弓町本郷にいたのか、それとも今のなんとかいう教会…。そう、牛込か。それでズ〜と牛込だった?

    --それで最後は牛込で。あの〜、澄江さんと昭彦(アキヒコ)さん、 息子さんが早稲田教会。で、お葬式をそこで。

    うん、早稲田でやったね。アタシは葬儀には早稲田教会に行ったから。
    でもアタシなんか弔辞のべるような人間ではな〜いから。
    アタシはね、ともかく親族がいればその三列めぐらいのとこに静かに座っているだけのことで、それから「サヨナラ。」って言っても「ああ、ヤツ来たんだな。」って言うぐらいで、アタシの顔みて涙をこぼすことはあっても、それ以上のことはね・・・。
    まあ、そう言うね、奈良くんとはいろんな関係あります、まだね。

    --じゃあね、それは別な機会に。
     ハイ!それでいよいよトミソングですよ。
     これからいよいよ『山々高く』に入るんですよ。


  • 『山々高く』

    学荘のリーダー会は日本橋小舟町の小林荘長の事務所で行われた。
    私はなんとかして学荘の歌を一曲かきたいと思って学荘のことをねほりはほり聴いた。「それならこれを読んでごらん。なんかの参考になるかもしれない」と言って、第5回の思い出帖を貸してくれた。
    山に囲まれた湖がある。木陰は涼しい。
    トムソーヤの冒険を真似して筏で探検にでようとする。
    興味をおぼえたら何でもやってみる。
    自然の中で知らず知らずの内に何かを学ぶ。
    なんと素晴らしい性格教育の場だろう。
    この少年のためのユートピアをどんな言葉で、どんなメロディーで表現したらいいだろう。
    私は野尻学荘の理想と教育目標に共鳴し、わずかな間にかなりのめり込んでいたらしい。
    第5回の思いで帖と、第6回の準備リーダー会の印象から『山々高く』を作詞作曲した。
    しかし、現場で本番を迎え一同で唱和したのちも「これでよかったのか?」と言う疑問が残った。
    この歌について誰も何んとも言わなかった。
    なにも言わないのは「これが当たり前だ。」とみんなが思っているからだと自分に解ったのは大分たってからの事だった。
    「学荘の歌をもっともっとたくさん作るのだ。」と私は自分に言い聞かせていた。

    おわり!これが『山々高く』だ。

    --う〜ん、なるほどねえ〜。

    これで解るかな?あのね、やっぱりね、どうしてアタシがねトミソングに打ち込んだかって言うことの関わりをのべないとね、あのね、トミソングがただ、なに?楽譜があって言葉がついていて、って言うだけじゃダメなのね。
    ここに触れなかったらね。学荘でどうして『山々高く』を本当にね、(学荘を)知らないのにこうね、見合い結婚みたいなモンだよな。だけども一所懸命それに尽くして、こうだろうかああだろうかと言って、パーっと開いてもっていったと。


  • 荘歌となった『山々高く』

    --ちなみにですね、こんにち一番回数多く歌われているのが『山々高く』なんです。それは、歌う機会が儀式とか開荘式とかだけじゃなくて。
     例えば、バスで東京に帰ってくるとき、都内にはいる。そうするとイロイロな歌を唄っていてもコレだけになるんです。
     ♪ランッラランラララ〜,それ〜!ヤマヤマタカク〜。
     で、唄い終わると再びソレ〜!ってなわけで美土代町まで着いちゃう。

    --30回つづA=nチチてね。

    そう言う話しを聞くとね、なんだかね、やっぱり人間ワザで作ったんじゃないと思うのね。作らされたんだねえ。
    アタシャねえ、なんて言うのかな、エヘヘヘ。
    こう何ンにもわかんないから、自分でやってきたんだって思って今日まで来たけれどね。実はやらされてきたんだって思うの。
    すべてのいろんなことが。そのうちの一つが『山々高く』だと思うの。

    --思い出帖から得たイメージってどう言うのかな?

    そりゃね、具体的には思いで帖も見たしリーダー会にも行ってね。
    アタシはその、職員会議なんてのはね、あの学校勤めをしてからだんだんに覚えてきたんであってね、そのどうやって指導するとかナントカてようなこと、あんまり知らなかった。
    だけど小林荘長のはね、コーユーことがあるんだからコレやろうね、って言う非常に解りやすい説明なんだよ。

    --教えるんじゃなくて説明なのね。

    そう、説明なんだよ。
    でね、もうね、そのね、第6回やろうなんて事はね、第5回のあとにズーっと小林荘長の頭の中のどっかで出来上がっちゃてて、それでリーダー会をやるときにゃもうチャント次から次へと何だか分からないけどいろんなモンが出てきて、プリントが出てくりゃなにもする。
    細かいとこはヌカポンの説明でなんとかする。
    誰かの説明なんとかいろいろあるけれど、こ〜ゆ〜ふうなコト、こ〜ゆ〜コトやるんだからコ〜しようね、って言ったように。
    そう言うリーダー会だったよ。
    だから解りがいいんだ。ね?

    --思いで帖を読んでから『山々高く』が出来上がるまで時間はどのくらい?

    (トミさん、背筋を伸ばし、お膳を叩きながら)
    これはもうアナタね!
    そんなことアタシはね!
    まとまるとなったらね、どんな長くても一週間以内ですよ!
    あるものは一晩ですよ!

    --ヒエエエ〜!!

    あの、こんどはその『ラッタタタッタ朝だ』とね『スタンツ』はね、これ三沢くんのとこへ行くと、ベ〜っと来るけどね、あれはだって二時間でできちゃった。
    と言うことはオレに言わせりゃ、その学荘の印象が強烈なんだよ。
    だからそうせざるを得ねんだよ。やっぱりね…。
    だから小林荘長のね、理想があって、そいでそのなかのリーダーの一人としてあそこに連れて行かれて、アタシがアタシなりに受けとって表現した。
    それをね、そういうアタシをヌカポンもナガポンもみんな見てるね。
    だから、あのねヌカポンは「おい、オマエおれの学校に来い。」「そ〜お?じゃあね」ってね。

    --もう一つこの歌について申しますと、ほかのキャンプでもトミソングが 唄われています。
     たとえば「学荘」という文字が入っている歌も他のキャンプでも唄いますね。
     しかしこの歌だけは他のキャンプでは唄いません。
     ボクはね、だいぶ前から「荘歌を唄います。」って言うからね、「荘歌」ではなく「我らの学荘」とおっしゃいって。
     荘歌と言うなら「荘歌・我らの学荘」とね。

    --なんで?

    --題だもの。「荘歌」とはどこにも書いてない。

    --でも「荘歌」で通じればそれでもイイんじゃないの?

    --ソウ?ウフフフ・・・。

    だけどね、荘歌って言うとね、なんかこう、学校の記章みてえになっちゃうよ。
    そいからなんかの旗のような、なんかシルシみたいになっちゃうよ。
    ソウカって言うとね。
    だけど『山々高く』なんだ。コリャね。
    だから森井さんの感覚は嬉しいと思う。
    そりゃ続けてもらいたいと思うよ。

    --作ったときは荘歌として作ったつもりじゃなくて・・・?

    だからアタシが誘われて入り込んで、のめり込みつつあった学荘というに対する打ち込み方だよな。

    --それを結果として荘歌みたいに使っている。

    だからそれを皆がそうやって唄ってくれんのは何と有り難いことでしょう、と。


  • 『美しい湖水よ』1938年

    当番リーダーの「ごちそうさま。」を合図に、みんながどかどかと自分のキャビンに戻っていく。
    これから「昼寝」の時間である。
    風とおしのよい隅のテーブルで、実修のリーダーたちが何かしゃべっている。
    台所の平井コックさんも引きあげたようだ。
    食堂の網戸を出ると湖が見える。
    黒姫、妙高はスカッと緑。三つ四つ白い雲が青空に浮かび、野尻は夏のまっさかりである。
    食堂の前には湖にそって、キャンプ・サイトを南北によこぎる村道がある。
    私はとんとんと木の階段を下りて村道に立つ。
    村道の下はススキが茂ってひろがり、生物小舎がススキにかくれて建っている。
    生物小舎の「どてかぼ」の狭い部屋に、ほかのアプレンティスが5人も6人も押しかけて、誰かのウクレレのリズムにのって調子のよい歌を唄っていた。
    瞬間「今のハイティーンはああ言う歌が好きなんだ。」と思った。
    調べたらそれは「カプリ島の歌」だった。これを宿題として東京に持ち帰った。それにしても、第6回の野尻学荘の生活の印象は私にとって素晴らしく鮮明で強烈だった。ある時ふと「カプリ島の歌」の唄い出しのリズムをもらって…♪タラタタッタラタッタタララ(トミさん唄いだす)「美しい湖水よ」のことばとメロディーをうたいだすと、ひといきに淀みなく流れでて、終りまでとまらなかった。このようにして「美しい湖水よ」は生まれたのである。この歌は学荘以外の人にも喜ばれ愛されて、現在では多くのキャンプ歌集、山の歌集に掲載されている。

    --でも「思いでのカプリ」が「美しい湖水よ」の原曲だったとはね。

    --リズムがでしょ?

    --そうそう。

    --ボクが大学のときトミさんにしかられたのね。
     「なんでアレをゆっくり弾くんだ!」ってね。

    --いまでもほとんどの人が、こうね、ゆっくり唄いますよ。
     だからトミさんの作った意図とミンナが唄いたい意図とはチョットちがうんだね。

    あの、それでは、それに付け足すところがある。
    これはですね、あの〜ま〜、ちょっとなんて言うかな、アタシがかいた曲だけども、あの〜なんてかな、神様が作らせた曲だと思えばいい。
    そうするとこれは相当な名曲だと思う。
    それで今はもうワタシね著作権のこと少し判ってきたから、一曲々々富岡正男作詞作曲何年ってちゃんとかきます。

    --これは時によって作者不詳とかいてあります。

    そうなんです!ハハハハ。
    それがね同盟の「楽しい歌」が悪いこと。
    あいつらは良くねえんだよ。
    あの人たちは富岡正男を知っていながらね「おまえの曲をのせる。」でもなけりゃあナーンでもない。
    でもそれはワタシにも責任があった。
    表紙には富岡正男と書いたけれど、一曲一曲の作曲者のところに富岡正男サインしなかった。ワタシは。だからドコへでもミンナいっちゃった。
    それでこれが楽しいって言うか名曲だった為に、或ね、ま、やっぱりキャンプソングの一種だろうね。
    ある歌集ではスイス民謡となっている!(大笑)
    スイス民謡って事はだよ、そうとう耳ってか、目のある人が音楽でとらえた。だからこれ名曲だと思う。
    それからもう一つ。
    この2人が言った「ゆるやかに唄う。」
    いいね?
    で、これがね皆さんね「音楽の友社」とあるようにね「教育芸術社」って「教芸」という教科書がある。
    ね?
    教芸の教科書ではね、なんと「思い出の湖」っていって、何タミコって言ったかな、有名な詩人ですよ。
    著作権協会にもかなりお名前が出てますよ。
    そのね、その詩人の作詞でね♪おもいでーのーミズウミーよー…。
    そう言う歌がピーっと出ている。
    それでね、今度でてくる三沢君が「キミ、あれはヒドイよ。ねえ、ボクたちが一生懸命ホネおって学荘の歌つくったのにね、あーゆーふうに流用されんのマズイよ。なんか言ったほうがいいよ。」って言って東洋英和のワタシに電話をくれたことがあった。
    それでその時ワタシが、もし今のように著作権協会とチャーンとしたコネがあれば「こういうヤツはどうするんだ。これ協会の方からやってくれるのか。アタシがやろうか。」っていう打ち合わせまでしたけれど、「これはワタシの曲ですよ。」って言うのを教芸に電話をかけたらスッ飛んできたね。それでね35万ぐらい、35万円ぐらいもってきた。

    --昭和の20年代の35万円。

    だけど、アタシはね35万って言うのがね、アタシにとってはね、だって8万か10万の月給でしょ?
    ンだからね驚いちゃったけれども、いまから思うと、コトによったら50万、100万だったかもしれないんだよ。

    --そうだよねえ〜。

    だから、そーおーゆうことをね、それは無断で使用していたんだからね、訴えられたら裁判になってますよ。
    むこうはもう本当にお手上げのような騒ぎになることでしょ?
    それで「ああそうですか。」って、またアタシもバカだからね。
    で、そのお金を頂いて。それはその詫び料ですよ。
    ンで「これからも使うんですか?」って言ったら「もう使いません。」って言うから「ああ、そいじゃいいですよ。」って。
    だけど使わせて使用料とる手もあったね。

    --うん、それのほうがよかったなあ。学荘クラブが管理して。
    --オメガが毎年買える。

    アハハハハ。
    これからはアナタがたに相談するから、相談にのってちょうだい。

    --これほど普及した曲はなかったよ。

     京成電車が音楽ながしてた時代に、これながしとったです。

    --ヘエエ〜!

    うん、だからね、あの、出版物の著作権っていうのはね、わずかなモンなんですよ。
    1冊ナン円てなモンですよ。
    それなのにかかわらずね、必ず1年に4回ぐらいね、報告が。
    今日も来てました。7千何百円。
    わずかなモンなんだ。手数料とかみんな引かれちゃうから。
    1万1千円ぐらいだったんだけど7千円ぐらいになっちゃうわけね。
    そいで報告がある。
    その中にね、やっぱし『美しい湖水』が入ってます。
    『美しい湖水』と『ガチャガチャバンド』

    --あれはNHKがながしたから。
    --ガチャガチャバンドは編曲なんですか?

    そうです。あれは、あのね…。アイルランド民謡。
    あのね、日本人はね、なんにも、世界のこと知らないから、イイカゲンに調べて、誰もそういうメロディーが無いなんていうと「富岡正男作曲」にすることがあるの。
    だけど何だ、このことはまた『ガチャガチャバンド』のくだりでしゃべります。
    はい、それじゃ『美しい湖水』いいですか?さきに行きますよ。


     栗田:ここの「一番だけのトミソング」はボツにしても良いと思う。
     だって、面白くないんだもん。
     だから ローマ数字 はづらしてねん。
     石井:いいや、記録はきちんと残すべきだよん!


  • 一番だけの『トミソング』

    ひとつにはこう言うことね。
    たとえば『ガッタゴットバス』に乗るとね、もう曲が終わっちゃうんですよ。
    ♪なるほど大きな湖だな、イヤ〜あれがねえボクラの洗面器、キミイ〜。
    そんで終わっちゃうでしょ?
    ところがね今度はハイズカズンバとかなんとかね、浮き台とかそお言うのやりたいわけじゃない?
    ね?
    そいで残ったからそれを今度は2節に入れましょうと。

    ー自分で作曲したのには割りと1番だけのが多いいでしょ?ようするに気持ちがあって、言葉と歌がウワ〜っと出来ちゃうけど、他の人の曲につけていくとね、曲が終わっちゃうのよ。

    それはアタシは詩人でないから。言葉が続かない。

    --いや、詩人でないって言ったって、言葉がそれで完結してるでしょ?

    『美しい湖水』の二番って言うのはド〜ユ〜もんだ?オマエ感じてるのは。

    --やってみろ!ったって分かんないよ。
    --こりゃ〜もう一番で必要充分だね。
    --これでいいんでげすよ。


  • 『トミソング』の唄い方

    --『美しい湖水』のね、作者の意図と違ってゆっくり唄うってのは、どう言うコトなんだろうね。

    いや、それはね、アタシの音楽にね、そう言う、こう…、なんて言うかな…。
    情緒的な面があるんですよ。
    で、それをね、アタシの先入観はどこまでもね♪タララッタッタラッタ〜(カプリ島の歌のメロディーを)あれとね『美しい湖水』とどこが違うかって言うとね、まん中がね♪わかーたれし〜って。♪ロロロローロロロ〜あそこが タタラリーラリリ に対して トロロロリ〜。

    --ボクらが教わったこの『美しい湖水』の唄い方ってのはね、「男唄い」なのね。トミさんが教えてくれた男唄い。やっぱ、ダッダッダーっていうあれと同じで、ケイキ良く唄えって訳でしょ?ところが女の人たち、たとえばYWCAなんかがソコ唄うとね必ずそのこれになるわけね。ダ〜〜〜っと。あれは「女唄い」だと思うのよね。だから学荘は「男唄い」を守ればって言うか、そう言う唄い方をすればいいんだと思うんだけどね。

    --だけど歳とってくると、だんだんとコレになるから。(笑)

    --言葉でね、「美しい」って言うのはね、「美しい」じゃなくて「うつくしいー」ってわりと長いイメージの言葉でしょ?だからそこで引っ掛かっちゃってね、♪うつくし〜い〜…ってこうやっちゃうから、全部が尾を引っ張っちゃう。最初に「これは早く唄うんだぞ!」ってのをね。
    --でもトミさん。そんなに可能性があるんならね、「美しい湖水」を含めていろんな唄い方でミンナに楽しんでもらったほうがイイね?

    アタシはやんないよ!(笑)
    誰かやったらイイじゃない。それ思った人がやるんだよ。
    その2人で組んでやったらイイじゃない。
    それを「いけねえよ。」とは言わない。
    何故かって言ったらね、アタシの書いたものがね、そう言う一面をもってるってこと。
    そう思えるってことは、ヒトがそう言うからアタシには解るのであって。
    だから教芸が♪おもいで〜の〜ミズウミよ〜ってのをやって「えー!?」と思ったけれどアタシはもうね、こう、なんてかな、自分の生んだ子じゃないんだよ。
    ママッコだよ。
    ただそのね「無断でひとの曲つかいやがって。」ってのはね。

    --歌はやっぱ生きているんですよね。
     唄うひとによって生かされるって言う。

    うん、だけどそれはね、あの、なんてえの?神保の言ったように、なんて言うんですか?アタシは、そんなもんやる気はないけども「野尻学荘ラプソディー」なんてのをやったらね、♪タタタタンタン、タタタッタター(スタッカートで)でしょ。
    そんからなんとか他の曲をいろいろやって♪ツルルル〜ル〜(ゆっくりと)それも悪くねえやな。
    だけども1節全部ベルベルベレとはやらねえよ、オレは。ただ気分転換にスーっとツーっと匂わせて、スーっと消したりね。

    --来年、音楽祭なんかやって正太か誰かにジャズふうにアレンジしてもらっ  たりして…。

    --そうだねー、お次は?


  • 『ラッタタタッタ朝だ』と『スタンツ』

     慶応ボーイのキャビンリーダー三沢進君は高円寺に住んでいた。私の家は阿佐ヶ谷にあった。「近いんだから遊びにいらっしゃい。学荘の歌を新しく作ろうよ。」私達は野尻でこの二つの約束をしていたので、東京に戻った私は10月のある晩、三沢君を訪問した。学荘の話は野尻の延長で、まるで二人だけのリーダー会のようだった。メモ用紙を前におくと、二人は興にのってしゃべり始めた。「朝」「キャンプファイヤー」「スタンツ」など、あてもなく話していると「フェーいい気持ち。」だとか「おどろき、ももの木、さんしょの木」などと三沢君が言いだした。スタンツは字引をひくと「人をアッと言わせること。」とある。ふと、私はベートーヴェンの「ヨークシャーマーチ」のはじめのリズムを思い出していた。

    (トミさん、作文メモをおいて)
    これはね、文書から外れるよ。
    ♪タラッタララタ、タタター(しばし巻舌で軽快に)
    タータカタカタタタ、タータカタカタタター。
    そお言うねピアノ連弾の曲しってます?
    それ、ヨークシャーマーチって言うんです。で…。

     それを思い出していた。それがそのまま「ラッタタタッタ朝だ」になって行った。三沢君の「おどろき、ももの木、さんしょの木」のリズムと抑揚は、何となく、手拍子に乗せた陽気な日本調を連想していたので、それがそのままスタンツの幕開き前の期待と興奮のムードをかもし出していたのかもしれない。こうして2時間たらずの内に二つの歌詞とリズムとメロディーとが誕生したのである。この「ラッタタタッタ朝だ」と「スタンツ」の歌は第7回野尻学荘で大ヒットし、そのまま今日まで唄われている。三沢君はその時のことを、第7回の思い出帖に詳しく書いている。彼は後に、母校の英文学の教授になった。

    --『ラッタタタッタ朝だ』と『スタンツ』は2時間で両方ともやっちゃたんですか?!

    そうですよ。そおゆうモンなんです。

    --三沢さんはいつ亡くなったんですか?

    しらない。死んだの?彼。

    --戦死じゃないですか? --年代的にいうと、そお言う世代ですね。

    戦死じゃないですよ。だってさっきのね「思い出の湖」は彼が教えてくれたんですもの。英和に勤めてから。彼はだってあの、慶応の教授になったんですもの。

    --その、ラッタタタッタのほうは、おっしゃるように下敷きになる曲があった。ところがスタンツのほうにはメロディー的には下敷きになるような物はなかった訳ですか?

    だって言葉自体があのね、え〜と…。
    ともかくね、学荘でね、第6回でスタンツを経験したから「だまって準備して」が出てきたの。
    (トミさん、再び机を叩いて)
    あのね!年少小舎なんてのはね、面白い三部形式なんだな!真ん中が学習室でね、こっちが斎藤ミッチャン。
    光夫クンね。
    光夫クンのキャビンね。
    そいからこっちが富岡のキャビンね。
    そいで、みんなで12人ぐらい寝られるのに6,7人ぐらいしかいないわけ。
    だからバラバラ〜と散らばって、リーダー室はまだもう一つ外側にあった。
    だけれども、スタンツの時なんていったら、普段はなんだかんだってゴチャゴチャ子供たちがペチャクチャペチャクチャやってるのに、あん時だけはコッソリ準備するの。

    --だから「黙って準備して」

    そう、黙って準備して。
    で、そのね、字引をひっぱったら「人をアッと言わせる。」とあったから♪アッと言わせる面白さ!で、そのね、寸劇だとかなんとか言わずにね、英語のスタンツをスタンツってそのまま持ってきたところがね、非常に私には、なんていうか新鮮さを感じたんだな。

    --これはなにか元歌っていうか、あったんですか?

    ないよ!

    --まったく無い?(ひつこい幹事)


  • トミさんの中の『日本調』

    これは富岡正男の日本調。日本調っていうのはね、え〜。
    アタシの育ったのは、そういう、え〜と、なんて言うの、二業ってのか三業ってのか、そういうのが裏の方にはある町の、表通りの商店だった。
    アタシはね、歌舞音曲がもうとても好きだったの。
    うんでね、こうね、チントンシャンなんていうの聴くとね、自然に手が動いた。

    --三味線持ったオネエサンがた呼んで!(笑)

    それだから♪スッチャチャカ、スッチャチャカ(手拍子打ちながら)スッチャチャカ、だまって準備してだまって準備して、アッといわせるおもしろさ。
    ほら、富岡正男のなかに日本調が流れているんですよ。

    --って言うことはね、学荘の生活の中のね、その、陽の部分って言うか、オモシロイ部分タノシミ部分、その時のリーダーやボーイズが楽しんだ生活の一場面が音になってトミさんの中から出てきた。それを三沢さんが助けた、ってな感じ?

    だけども、ともかく三沢のね「♪おどろきモモの木さんしょの木」ってのをね大切にしようと思ったね、その瞬間。

    --なんかよく知っている言葉だったけど、こうやって音が付くとすごく新鮮な感じだねえ。

    いまでも新鮮だよ、オレの中じゃ!


  • 『学荘盆踊り』の誕生

    だからね、そう言ったような、あの何ていうの?
    チョッと日本調の宴会気分っていうか。

    --宴会ソングですか?

    そういうモノもアタシの中にはあるわけ。
    だからそれが折りにふれて時に応じて流れ出るわけ。

    --同じ年に「学荘盆踊り」ができているんですね?

    そうですよ。で、「学荘盆踊り」ってのは第6回。ね?第6回。

    --1938年なんだよ。

    ちょっと待ってよ。
    第6回の時にファイヤープレイスで木曽節やったの、アタシが。
    ♪木曽のなあ〜あナカノリさあ〜あん、ね?
    こう日本中に伝えられているような、いわゆる正調木曽節じゃないわけ。
    ♪木曽のなあ〜あナカノリさあ〜あん、木曽の御岳山はナンジャラホイ。
    そう言うのね?
    そう言う調子でアタシはね「見晴らし小舎」って言ったの、その第6回でアタシが持ったキャビンが。
    で、その子供たちに教えて「さあさ皆さんいらっしゃーい。木曽節のご練習ー。」とか言ってアタシが音頭をとって、で、みんな中一中二の子供に一緒に踊らしたのね。
    そう言う下地があったので♪ここはな〜、って自然にできた。
    それともう一つは ♪だまって準備してだまって準備して、のもう一つの日本音楽の特徴は ♪ここはな〜ノジイリイよ〜、ノジリコオのおおホトリヨオ〜(トミさん、心地良さそうに) これはもうね、日本の典型的なひとつのメロディーとリズムですよ。
    だから、アタシは非常にオーソドックスな日本調を持ち込んできたわけですよ。

    --なんか作り物として出来たんじゃなくてさ、トミさんの身体の中から出てきたみたいだね。

    だってアタシは日本人だもの。
    日本で育っていれば、そーゆー音がまわり中にあるもん。

    --ボクなんか中学生のとき初めて聴いて、なんか粋だなあって。
     ボクは、いわゆるオネエサンがたのソレは知らなかったけど、そーゆーのは好きだったんですよ。
     近所にイロッぽい師匠とかいて。
     だから、そーゆーところで、お、コイツは粋だねえ〜ってノリがありましたよ。

    う〜ん、アタシはもうそれの、どっぷり漬かってたもんね。
    そんな中入って生活したわけじゃないけどウチの裏の方いけば、そう言う社会だったからからね。

    --これね、盆踊りね、オレが学荘に行ってズイブンたってから教えてもらったよ。いや、やってくれなかった。どーゆーわけかねえ。
    --やってなかったよ。アタシは20回。コタロオが22回。

    それはねえ、ちょうどそういうニードがなかったんじゃない?
    その頃のキャンプには。
    アタシは「アレやろうよ。」って言えばやったかもしれないけど、賛成もないのにガムシャラにやるほど…。
    「山々高く」とか「美しい湖水」はね、賛成があろうとなかろうとこれは学荘の必要だと思う歌だよ。
    だけどね♪ここはな〜、なんてハハハハ。
    ちょっとね、あの、二流ってか三流ってかさ、そういう歌じゃない?

    --ん〜なことないよ。

    アーハハハハハ!(トミさん、手を叩いて)

    --ゼンゼンちがう世界ってかね。

    そう!

    --これ伴奏するのに苦労したもん。和音がなんだかってゼンゼン掴めなくて

    ああ、それは二度を使えばいいの。(トミさん、アッサリと)

    --トミさんのを見てから解った。

    おこられおこられ、やっていたものね。

    あれは二度を使わないと出てこない。
    れをね、短音階なんかでやったらぜんぜんダメ。
    ドレファソラドってなるの。
    ね?
    「君が代」をくっつけたようなもんだ。
    ジャンジャジャジャーンって言えばそれでできちゃう。


  • 『トミ節』を教える

    --一旦トミさんが来なくなって、もう一回きた時はさんざん叱られたから。
     あのときずいぶん教わったって言うか、取っちゃったんですよ。

    そうだよなあ〜。う〜ん。

    --ボクらの時なんかは中学のときから、最初からトミさんいたもんね。

    --和にいて、しょっちゅう顔だして文句いってた。

    --ミさんがいない時は森井さんが弾いていたってイメージがあるね。

    --あの頃は森井さんに弾かせないようにね、食事の時間になるとね、誰かがピアノのとこにいるの。当番きめてわざとそこにいるの。(笑)

    --正太にやらせようって。正太がくるとサッとどくんだよね。

    --あった、あった。(大笑) ー本人の前では決して言えないけどね。

    --トミソングを最初からトミさんに習ったってのはラッキーだったんだろうね。
    そう言う意味では。(森井氏「そりゃどーゆー意味でだ!」という顔)
    あのね、今年あたりチョット久しぶりに行ったでしょ?でもねトミ節は、ちょっと、アレ、ちがうね。リズムがちがうよ。ただね、正太だったらね、ちょっといいんじゃないかってね。

    --でもトミさんに直接教わったかそうでないか、っていう差は大きいんじゃない?

    それはある。あるけどね…。
    いわゆる、そうね、善意でね、忠実で。
    だけども食い足りない。「そうじゃない。」ってことが言えないのね。
    そうねえ、20年前30年前のアタシなら、ムキになって言ったろうけどね。
    3日4日で帰っちまうジジイがね、そんなこと言ってヤナ思いさせるよりはね。

    --じゃあ、ワタシのときは2週間いたから文句言ったんだ。

    そうそう。それとアタシがまだ文句をいう気力があったわけ。

    --ボーイズに教えていてね、口で叱れないときは目で叱るわけ。これがスゴイのよ。
     その目がね。

    --まだ叱るよ。
     こないだワタシぶたれたもん。
     「何でそこで出る!」とか言ってピシャッ!とかくるわけ。

    あのね、今年あの、英和でヒコザがディレクターだったよね。
    ヒコザはなぜだか知らないけどね、自分のところにね、アタシがボーイズにトミソングを指導している時のテープを持ってて,いまだにそれ持ってるって。
    「トミさんのリズムはいいリズムだね。」ってその話をしながらヒコザが言った。
    それでアタシは、アアーなるほどって思った。
    ともかくね、6回から30回までは、ともかく行ったんだからね。
    だからそのどっかでナンカ録音されていたんだろうね。
    だからもう古い古いテープだから、どんなことになってるか知らないけど、少なくとも、それまた指導されたやつらがみ〜んなトミリズムで唄ってるんだよ。
    で、オリャーね、「へー!」って思ったけどね。
    そりゃあ、ありうることだね。
    だからね、我慢できないんだよ。オマエが変なこと弾いてりゃあ。(笑)


  • リーダー会で観に行った『映画』

    --え?終わったの?今日準備したの終わったの?

    --もう三つ終わりましたよ。

    三沢まで言ったろ?
    で、このあとは、今度は「オーケストラの少女」になるわけ。
    あの、小林荘長がみんなに、切符をくれて「オーケストラの少女、観にいっておいで。」って。
    「一緒に行くならいついつだよ。」って。
    それで、それに行くとちゃんと待ってて誰かさんが、誰だったかね、一色さんじゃなかったと思うけど、ともかく誰かさんが「ハイハイ。」って言って、アタシたちは貰ってスーっと。「えーえー!」なんて言って感心して見てきたんだけども。
    そうやって、優れた映画だとか何ンだとか言うと、リーダー会で全部それを見に行くわけ。
    そして、それについて何処が良かったかって。

    --それをリーダー会でやるわけ?すばらしいねえ。ね?
     やっぱり文化とか教養ってのは、そうありたいね。

    それは「オーケストラの少女」だけれども、もう一つ映画に行ったのはグリーン・パスチャーね。
    あの、ん〜、「緑の牧場(まきば)」
    「緑の牧場」って言う黒人芝居。アメリカのね。
    ニーグロ劇団があってね、んで、それは2つしかないんだそうだ。
    それでね、なんてえの?フロックコート着ているのよ、神様がね。
    フロックコート着ているの。
    それでそれが神様なんだけどね、それでいろんなことやるわけなんだけれど、それを全部、黒人の社会のこととして扱ってるの。
    で、小林荘長いわく「あれをもし、白人にやらせたら見る人が『自分の事』とあんまり切実なんでね、見るに耐えなくなるから黒人芝居にしたんだ。」って。
    多分そんなような説明だったと思うんだけどね。
    で、そう言ったような、あのー、うん、そう、でね、ワーっとね、イエスが十字架にかけられる。そうすっと十字架をしょって行くわけだ。
    で、イッショケンメこう歩いて行くでしょ。
    それをあんまり騒ぐので、その、まあ、校長さんだか何だか知らないけれど、そのフロックコートのオジチャンがね、こう、窓から見るの。そしたら十字架を背負っていたのがその人だったの。ね?
    つまり神が自分では十字架しょえないから、自分の息子に、だけどそこは映画であり役者だから、うん、十字架背負っていた人が自分であったと。
    そお言うようなモノも、ちゃんと切符を配って見せた。
    だけれど、いわゆる教会式じゃなくて牧師さん式じゃなかった。
    でもアタシはね「オーケストラの少女」なんてのはね、一回きりじゃないからね。
    それから五回も六回も八回も見たんだから。
    追っかけて歩いたんだから。
    だからその「緑の牧場」のほうはあんまり覚えがないけどね。

    --小林先生がそれだけの切符を配られるってのは、いろんな映画を見てたんだろうね。

    --そうだろうね。これはイイってものを薦めたいものを配ったんだろうね。
     「おまえら見てこい。」って。

    --今日あたり荘長から、なんか券が出るかな?(笑) --これで飲んでこいってのがイイな。(笑)


  • 学荘のチャイムと『今日のわざ』

    ん?チャイム?
    チャイムってのはね、よっぽどあって5本なの。
    普通は4本なの。それは移動度でいうと♪ソドミソー。
    もうちょっとあげて♪ドー。♪ソドミソー。
    これだけで物申せって言うの。それで軍隊ラッパがそうでしょ?

    --タタタタターター・・・・。これが軍隊ラッパ。

    --そりゃ「新兵さんはかわいそう」だ。消灯ですよ。

    そう「新兵さんはかわいそうだ」ってあれになるわけよね。
    ♪タンタンタンタンタタタタター、タンタンタンタンタンタンタンタンター。
    あれが「また寝て泣くのかよー。」ってんだってね?かわいそうに。
    それでともかく、その4つの音でなんかこうリズムを持たせて「あーメシだ!」
    とか「集会だ。」とか、そう言うことを思わせなきゃいけない。
    そしたら「おやすみ」ってのはね、アタシやっぱり『今日のわざ』しかなかったと思うから。唄いだしのとこだけ。

    --あれは最高。

    --でもチャイムの話ですけれど『今日のわざ』は1940年ですね。

    --『今日のわざ』ってのが作られたモトってのは?

    じゃあね『今日のわざ』しゃべれって言うからアタシはいくらでも。
    だけど文章になってないよ。
    あのね、う〜ん、第1回から始まって2回3回ぐらいまでは、あの〜、作り付けの食堂だとか、それから何とかいう、そお言う小舎は段々にふえていったろうけどキャビンはみんなピラミッドテントだったわけね。
    そおして、草っ原のところにね、カットベッドがあったかもしれないし、なんかこう、グランドシートがあったかもしれないけども、そこに毛布にくるまって寝るわけですよ。
    けど、本当にタヌキが出るかクマが出るかわかんないわけですよ。怖いから。
    で、怖さがつのったならばもう5週間なんか間がもてないですよ。
    ほいでホームシックになっちゃいますよ。
    だから、あのー、「おやすみなさい。」って言うときはキャンプファイヤーの回りにテントがあって、あるいは、そーふうに作るのかな。
    で、火を燃やして。
    で、♪グードナイト フェロー、ってもってやって。
    ♪メリー・ウィル・シングアンドプレイ…、バイ・ザ・グリーンヒンサイド!!
    (ともかく早いテンポで唄うトミさん)
    「おやすみなさーい!」って言って、テントの中に飛び込んでってグーっと寝たもんです。
    だけれども、あのー、なんて言うの?小林荘長はしょっちゅう言ってたけどね「キミね、そーゆーことを言うと文明を否定することになるよ。」ってこと、よく言った。
    学荘でも、1回から6回までに来るまでには大抵の小舎が建っちゃったの。ね?
    で、そうなって来るとね、もう、あの「おやすみなさーい!」♪メリー・ウィル・シングアンドプレイ・・・!って唄う必要がなくなっちゃったの。
    なくなっちゃったのに、そゆふうに騒がせるってことはストーム誘発なんですよ。

    --ダハハハハハ!

    いつのときでも食い物か、あるいは何かの生活の中かプログラムの中か何かでね、不満のないヤツはいないんですよ。
    で、それをこのストームを誘発させる「おやすみなさい」の歌のときに♪メリー・ウィル・シングアンドプレイってでしょ?。
    ♪バイ・ザ・グリーンヒンサイド!「おやすみ!」ってでしょ?
    そりゃあもうね、何ての?前世紀の遺物ですよ。
    「こいつはいけねえ。あの歌がいけねえんだ。」って思ったから。
    それでアタシはその1940年。
    1940年って言うのは、2600年。皇紀2600年のとしです。
    ♪金鵄かがやくニッポンの〜、の年ですよ。
    で、それで何を考えたらいいかって言ったら「父上よ、母上よ、恙なく居ませや。」が言いたいところだった。
    だけどね、あれはね、AーBーAーBーAーBーAーBなんですよ。
    で、最後にまたAで終わっているんですよ。
    そうじゃない?
    だから、♪やすらかにー、すこやかにー、ってのが真ん中の部分で、それから♪わーがつとめー、あすーもつくさーん。でしょ?
    それから♪父上よー、母上よー。♪今日のわざー、すーべて終えー、でしょ?
    で、そゆふうに5つあるんだ。
    AーBーAーBーAとあるわけ。ね?
    そうやって寝る時には、我が家のことだとか何かこう、シズカ〜に一日を振り返ったような歌を唄って「おやすみなさい」にするのがイイと。
    それが一番自然でしょ?
    それで怖くないんだもの。
    そしてクマも何も出なかったんだもの。
    だから、そお言う穏やかな「おやすみなさい」をした方が教育的であると思ったですよ。ウン。

    --そいじゃトミさん、チャイムってのはね、学荘では6回とか7回とか、かなり早い時期からチャイムで合図してたんですか?

    あのね、6回に行った時にはチャイムありました。

    --ホ〜。それでヤッパリその、食事だとか何だとかを?

    それはアタシが作ってなかったんです。
    その時は何だかもっと別な。
    あっ!ヌカポンがいたから軍隊ラッパやってた!(笑)

    --なるほどねえ〜。軍隊ラッパだったら当時みんな知ってるでしょ?

    --で、チャイムってのは以前から使っていたわけ?

    うん、うん。

    --で、メロディーが出来たのは戦後って事?

    さっきの、あの、何てえの?食堂から出る網戸があってね、ハエを防ぐために網戸。
    そうねえ、ヤッパリ六尺幅。もうチョット広かったかな?
    で、スノコが置いてあってね。
    で、下駄箱があって、下駄箱でもって足を、履物をこうやって。
    そん時に「手を洗って下駄を掴むのは汚い。」と。
    だからズラーっと長く置いといて一番下とかその上とかぐらいに足で入れる。
    ゲタを、フフフ。
    それでその、登って。さっきのトントンって木の階段を登って行った。
    …あら、忘れちゃった。(トミさん、体の方向をさだめながら)コッチだな。
    だから南よりの方に4本ぶらさがっていた。

    --チャイムが?

    うん。
    で、アタシはあの「こりゃチャイムのメロディー、すぐ作らにゃいけないな。」と思ったのね。

    --あの音もね、あそこに最初に参加した子供たちにはヤッパリ強烈な音だよね。


  • 『メロディー』に導かれる学荘の生活

    --いやね、いまトミさんが言ったね、朝ンなると「アサダ〜」の音がありね、寝る時にゃ「今日のわざ」の音ありね。
     で、メシん時はアレが鳴るとね。強いて言うとね、食欲がわいてくるような。

    --パブロフの犬だね、アンタは。

    それはあるんだか知らないけれど、ともかくあの、学荘の歌ってえのはこう瞬間ってえとおかしいけど、その時々のムードの、その時に必要な、ニードとムードと両方あるけど、そお言うモノを備えた歌をちりばめておかなきゃいけない。
    いちにち中に。
    アタシャそう考えた。

    --で、あたしなんか思ったんだけど、中学一年になるまでは学校でベルが鳴って呼び付けられるってか「集まれー!」ってね。
     で夏休みアソコに行ったらね、カンカンカーンって。

    --なんかやっぱり豊かな感触だったよね。

    --極端に言うとさ、当番指導者がオレ自身に呼び掛けてくれてる、そう叩いているってな。

    --で、もっと言うとさ、リーダーみんながが叩くでしょ?
     そうすると個性が るんですよね。ウヘヘヘ。音痴がいるんだよね。

    --間違えるヤツ。

    --最後のイッコ、空振りするヤツがいた。

    --リーダーになっての楽しみの一つがさ、アソコに登ってチャイムを鳴らす。
     それを叩いている自分に「オオー!」って思う何かを感じた。

    --チャイムってなかなか打たせてくれなかったよ。

     --あれは当番指導者の役得ってのかな。

     --ありゃあ、すごく気分がいいのね。

    --そうだよ。その日いちにちオレが仕切るってのがね。

    --消灯になると「オマエラ寝ろ!」ってね。
     「寝なくてもいいからベッドでよこになれよ。」って。なんか喜びだったな。

    --それは言えるね。

    --なんか今でこそさ、防災無線じゃないけどさ、夕方になるとヒドイ音楽が町に流れたりするじゃない?あれイライラするんだけど、ああいう、その、音楽が流れるってことはさ、ボクらがボーイズの時代には無いんですよね。

    --ないない。だいたい世の中に無かったね。

    --で、しかもね、チャイムのメロディーって我々にしか分からないじゃない?
     「オレたちには分かるんだぜ。」ってのが嬉しかったな。

    --屈折してるねアンタ。

    --食当が鳴ると飛んでって。行かないとブッとばされるし。

    --食事になりゃ、フッ飛んで行かないと食い物が無かったりね。

    --貧しい時代っだったの?オタクの時は?

    --40回記念誌にチャイムの写真がある。
     あれを叩いているのはトミさん?

    --そ〜です。
     あれが印象的であるのはね『復興の学荘』ってところに、一番最初の写真にトミさんが高らかにチャイムを鳴らしているアノ写真があるところなんです。

    --いまのチャイムはもう二十年経ちますね?

    --いっかいダメになっちゃったけどね。

    --でもよくモッテますわねえ。

    --リーダーがガンガン叩くわりにケナゲですねえ。

    --あれって確かドイツ製じゃなかったっけ?

    --ええ、あれもオメガみたいにみんなでお金も集めたですよ。

    --若杉さんだかに託したんじゃなかった?

    --そうそう。結局、オポンがずいぶんお金出してくれてね。

    --英和のも同じメロディーが鳴るもんだから、時として間違えたりね。

    --あれねえ、英和のはね、誰が叩いてんだか知らないけど優しく叩くの。
     で、学荘のはね、リーダーが叩くから男ッポイ。力任せにね。

    --そうそうそうそう。ガンガンいくからね。

    --さっきのコタロオの「おとこうたい」「おんなうたい」じゃないけど、その叩き方でも、やっぱり聞分けが出来るの。

    それはさ、共鳴ってかさ、響かせかたの問題ね?
    こう、なんてえの?ヒサシの下んとこにブラサゲてね、こう、ビーってやると、ココだけは響くけども向うには行かないもん。
    うん。

    --じゃあ、キツツキのあの場所はやっぱり良かったんだ。

    --下駄箱の上に乗って。

    --あれね、自分が叩いているとボーイズが見上げてるわけ。
     ワタシをね。なんかチョット偉くなったような気がしてね。

    --そうそう。

    --ときどき落ちるんだね、アレは。ゴーンなんてね。


  • 『オペラ』や『人形劇』のこと

    --トミさん。雑談にうつるんだけどね。
     (もう、移ってます、さっきから)
     『アリババ』とか、『白雪姫』だとか『サルカニ』だとか、その辺の話  もね。
     ってのは『アリババ』や『白雪シメ』いや、『姫』だ。
     この辺やらないね、今。

    やらないもん。一回しかやってないもん。

    --やってますよ。人形劇を見せていただいて覚えてますってば。
     露崎クンや栗田クンは知らないけど。

    --しらなーい。

    --知らないでしょ?
     アタクシはトミソングの一環として覚えたし唄った。

    --♪おや、ボクのベッドが濡れている…ってのがね。

    --へこんでるだよ!(笑)

    --濡れている、ってのがあったよ。

    それは替え歌。
    川尻がこさえた。
    フハハハ、川尻ってのは何でもモジルやつでね。
    あいつはワルイやつだったよ。
    だから死んじゃったんだ。

    --そう、それ唄っちゃ叱られた。(笑)

    --ケイボンはイイやつだったんだよ。とても。

    いや、やっぱりワルイやつだった。(笑)

    --柿の木をやってくれた、学荘の歴史に残る方ですからね。
     それから『アリババ』なんて言うのはストームやる時に唄いたくなる歌でね、ありゃ。

    --♪オーイラは盗賊って。

    それはねえ、学校オペラというグループがありましてね。
    そっちの方でやりますから、「よろしかったらどうぞ。」って言って。
    で、アタシはその仲間に入れてもらって「音楽の友社」から…
    70銭?70円?
    なんかそれで出してもらったの。
    それをこんだ合本にしちゃって、第2集かなんかに入っているわけですよ。
    で、それを抜き刷りにしてもらって、学荘に入れてもらったの。
    それで、あの、まあアタシが『サルカニ』作曲したこと知ってるもんだから。
    だからアタシは「東洋英和の生徒に教材として教えたいから。」って言って。
    そおすると何百冊すぐ、パーっとでしょ?そおすっとですね、二千冊だすのにね、七百八百となるとね、もう「友社」ではタダなんですよ。
    あと紙代になっちゃうですよ。
    最初に資金がね。だもんだから「それだけはワタシやります。」って言って。
    長野先生に「これ教えさせてください。ワタシやります。」
    「いいよ。」って言うから、それで英和でさるかにを教えたの。ね?
    それが一つのこと。
    それから、もう一つは東洋英和で音楽部で、と言ってもね、音楽部の女性コーラスなんてタカが知れてるんだよ、キミ。
    毎年々々やったら、タネありゃあしないよ。
    三年もやったら。もっと難しい曲は唄えないしね。
    易しい曲はもうタクサンだしね。
    それで、これは面白い少女歌劇でもこしらえようと思って、それで考えだしたのが『森のクリスマス』ね。幼児童話の『森のクリスマス』。
    その次は『アリババ物語』
    それから『白雪姫』
    それから『七夕物語』
    それからね、
    あ、さよならー。じゃーお願いねー、アタシのパンビー。
    〔パンビー藤本氏早退〕
    それからね、え〜とね、『地下鉄サブ』もやったの。

    --へ〜。楽譜あるの?


  • 未完のオペラ『大岡政談』

    え〜っと『地下鉄サブ』の後にね、アタシはあれもやりたかったの。
    とうとうこれは不発に終わったけどね『大岡政談』ね。
    ね?
    「三方一両損」だとかね。
    「ぬかみそ裁判」だとかね。
    あーゆーの面白いと思って。
    ♪空は青空日本晴れ〜、ってな事言ってね。(笑)

    --やろうよ、今から。

    それじゃあオマエね、だからね、それをね、オレはね、あのー、「立川文庫」がなきゃ出来ない。
    それを探してくれよ。
    それがネエんだよ。
    「立川文庫」があればね、是非やりたいと思ってんの。
    あのね、なんてえの、略式のチョンマゲでいいんだよ。
    ね?
    それでね
    ♪空は青空日本晴れ〜、ってなこと言ってね。
    で、あの古川禄波(フルカワロッパ)にね、ナントカ!ベランメイ!
    江戸っ子でい!ってのがあるだろ?
    ああ言ったようなセリフと節回しでやったら、さぞかし面白かろうと。
    それはね、富岡正男の中にそう言う日本調があるんだよ。
    だからアタシはやってみたいと思う。
    そして一番最後に英和を、それこそもう卒業だけどね、最後にやったのはマルシャークの「森は生きている」。
    これはね、生徒が「それならアレがいい、あれがいい。」って言ったけど、絶対オレは握ってて「うん。」て言わなかったんだけども、あんまりやりたがるもんだから、ある年にOKした。
    だけどもね、雪の降る情景なんてものはオレに分かんねえんだよ。
    あの、なんてえんだ?
    マルシャークのね、北欧のね、大雪のね、森の中にね、1月から12月までの月の精が現れてきてね。
    そしてこんだ、それが春夏秋冬いろいろ入れ替わったりするような、そお言うストーリーってのは「俳優座」でやったけどね。
    「俳優座」でも3時間半か4時間近かったよ。
    渋谷公会堂でやったの。それをオレ、2回見たな。

    ー学荘クラブで滞在費を負担して、トミさんをフィンランドへ2ケ月ぐらい派遣しようか。

    --著作権はこちらにもらって。(笑)

    そしたら、たまたまその時に英和のスキークラブが、佐々木がね引率してエ〜トね、ほらあの、あ〜、山形の蔵王に行くんてんで「オレも連れてけ!」って。
    蔵王のね、山のいい加減なところにね、ガラス張りのさ、オレはもう滑らないからね、だからそこで一日こうやってね「森は生きている」の、雪の、一所懸命…。
    なにも出なかったけども、そお言う経験をして帰ったぐらい一所懸命打ち込んだんだよ。

    それで最後には『森は生きている』をとうとうモノにした。
    で、3年もかかったよ。


  • 楽譜にのこす『オペレッタ』

    で、そお言うモノを佐々木ショウコは「先生のアレは独特なんだから、アレを先生なんとか残して下さい。そのためにはワタシなんでもします。
    ワタシの仲間もみんなしますから、先生やってください。」
    で、彼女は声楽を出て教師になったわけよ。
    自分の生徒たちに、自分が楽しかった英和時代に、楽しかったこのオペレッタだかオペラだか知らねえが、そゆモンをやらせようと思って種本探しにいくんだよ。
    「コレは」って言って楽譜屋か楽器屋から本もってくるんだけど、どれやらしてもサッパリ面白くねえ。
    トミのが一番面白かったって言うんだよ。
    「先生アレどうした?」って言ったのが、今からそうねえ、十何年前だね。
    「あるよ。」って言ったら「ああ、先生それやろうよ。」って言うから「やろう、ってったてオマエ、だた五線譜帳にイッパイ書きなぐって、伴奏は伴奏、メロディーはメロディ

    --で、オマエたちが習ったようにガリ版であるっきりだよ。」って言ったら「それ先生なんとか楽譜にして。」って言うこと。
    それで、それで、ショウコと出会ったのが今を去る5、6年前だ。
    いや7年前ぐらいからだ。
    ショウコがオレんち来る。
    オレがショウコんち行く。
    それでやって、やっと『森のクリスマス』だけは出来た。
    だけどもその次やるんだったら『アリババ』か『白雪』かと言うので、今『白雪』にかかっているわけ。

    --ああ、やってるわけね?

    だけども一つは人知れずであることと、あまりにもこの世の中の御用が多すぎて、エッヘッヘッヘ。

    --だめだよ、天国に持っていっちゃあ。仕事はこの世でやってよ。

    だって、今日だって聖歌隊だったもん。午後にね。
    うん、それからこんだウチでパイプオルガン入れるなんて言うから見学。
    オルガンの見学。
    見てまわんなきゃいけない。
    自分だけやったってしょうがねえから、みんな連れてって「あなた『天地こぞりて』唄うでしょ?」って「アレ唄いましょうね。」って言ってオルガン弾いてもらって唄って帰ってくる。
    「さあ、どお言う感じがしましたか?我がこの狭い教会ではどのような音がいいですか?」って言って、それ今やっている最中だ。

    --はい。お忙しいところ恐れ入りますです。


  • 『ガチャガチャバンド』

    --最後なんですけど『ガチャガチャバンド』の話。
     三つぐらい、イッペンに作ったって話しよ。

    あっそうか!それか。
    それはね『美しい湖水』と『ガチャガチャバンド』だけが、小額ながら一年四回の会計報告が著作権協会からくるの。
    ね?
    その二曲だけは必ず。
    片方は放送でくるの、『ガチャガチャバンド』はね。
    それから『美しい湖水』は出版物でくるの。
    みんながこう手数料を払って、一番最後に残ったわずかなモノをアタシにくれるわけ。その話しなわけ。

    ー『ガチャガチャバンド』はアタシがボーイズの時にトミさんが、あの、当時のリーダーが国際キャンプに参加して、オーストラリアに行って帰ってきて「トミさん、こんな音があるよ。」って言って、トミさんに渡して。
     で、それをトミさんが学荘の期間中に作詞編曲なさって、こしらえた歌。
     それがNHKの「みんなの歌」に乗っかって、もう今や小学校の教科書に載っかている歌になった。

    うん、そうだね。アタシが知ってたのは高校だったけどね。

    --いま小学校ですよ。

    オオウ!たいしたモンだねえ!

    --たいしたモンですよ!

    たいしたモンだね!
    そりゃあエライや!
    うん。
    アタシはねえ、国際キャンプとかね、ああゆう所でね、イロイロこう、なんてえの?世界各国のいろんな楽しい歌を、かわった歌を、こう、集めてくれるでしょ?
    あれはね非常にエライことだと思うのね。
    日本で言うならばね、青森の歌ね。
    秋田の歌ね。新潟の歌ね。静岡の歌ね。
    そんでズ〜といって沖縄の歌までね。
    み〜んながね、いろんな地方でね、お国ぶりをね、キャンプファイヤーなんかの時にやって見せるじゃない?
    唄ってきかせる。やって見せる。
    それがアイルランドであったり、ウイーンであったり、ナンであったりするんだと思う。

    --それでね、その話しには続きがあってね、カルガリーで冬季オリンピックがあった。
     その時にアイルランドの選手団が入ってくる時にアノ曲が流れた。

    アイルランドじゃないよ。

    --どこよ?

    なんだか知らねえけど、ともかくチャチなカナダのね、田舎のね、チャチな楽隊がたのまれてやっているんだよ。
    ♪タター、タタタターター、タータタタタタター。
    おおやってるじゃねえかオイ!(大笑)
    こりゃあ驚いたね!
    ウチのババア知らねえから「ナニいってんだコノ人は。」なんて言ってね。
    へんなスキーのでしょ?そのカナダの田舎オケ。
    田舎楽隊、オーケストラなんてもんじゃないよ。
    ♪タター、タララター(トミさん、しばし気持ち良さそうに)
    もうね、まるでね、学荘の連中だってあんなにヘタじゃないよ!(大爆笑)
    そお言うなんてかね、アクっぽいってかね、ホント〜にナンともアリャ〜、世界の田舎の音楽だね。
    そお言うので『ガチャガチャバンド』の原曲やってたよ。
    アタシャ〜嬉しかったねえ。


  • リーダーが持ち帰った『原曲』

    --布能さんは耳でもってきたの?楽譜で持ってきたの?

    いや、言葉ですよ。
    『マクナマラス・バンド』って言うんですよ。
    で、その『マクナマラス・バンド』って言うのは、その「アイルランドでー番上手い楽隊だ。」って言うのよ。
    それで「ホルンはプップックプー。」ってんだよ。
    で、ナントカはナントカって楽器のね。
    それが♪タタタター、タラッタターター。
    それがね楽器一つ一つの音色のことを唄っているの。
    アタシはそれをね、日本人の男の子にね「ホルンはプップップクプー。」なんて出せないでしょ?
    だから、そしたらね、同盟の『楽しい歌』の一番最後にね『バビブベ』ってのが有ったの。
    それ貰ってきて♪バベビボー、バベッビブーボーッってこしらえたの、アタシは。
    それから台所のチリトリだとかホウキだとかハタキだとか、そんなもの学荘でやったら一回でブッツブシちゃってねえ。
    「アア、これはダメだ。」と思ってね。(大笑)

    --センメンキじゃないけど、こうタライでね。

    そう!そうそう!
    あんなんでやったらね、もうなんにもなんない。
    だけれどあの『ガチャガチャバンド』をアノ歌にはめこんだらいいじゃないか、とやっと思い付いて、そいでああ言う言葉にしたわけ。
    そして誰とかさんの結婚式にも呼ばれました。
    グラント将軍の凱旋の時にも呼ばれました。
    で、ナントカの葬式にも行きました。
    みんなあるわけ。
    だから、その他歓迎送別法事選挙結婚は特に、ってそのことなの。
    で、そーゆーふーにまとめるのに3年かかたの。
    学荘で考えたんじゃないですよ。
    もちろん学荘でも考えたけど、そお言う姿に固まるまでに丸3年かかちゃったの。
    それで布能にね、あれもよく飽きないで付き合ってくれたと思うんだけどね、ワラ半紙のね、タイプ印刷でね。
    それで彼が一所懸命唄ってくれるわけ。
    アイツね、声が低いのよ。
    だけどね、音程が確かだからね、全部アタシそれを五線にうつして「あ、もう一度。そこからそこまで、もう一度。」って、有り難うよ、今日は出来たよ、って。
    「これの意味を訳してくれ。」って言うと、「こうだこうだ。」「ああそうか。」って。


  • 「出来るまでに三年間」

    「どうも、これがいい曲だ。マクナマラスバンドが一番いい曲だね。」って。
    「オレにはちょっとね。」
    「なんで?」
    「これを、どお言う学荘ソングにするのか、ゼンゼン見当もなにもつかねえ。」
    「これ調子がイイから、これ使いたいから。」
    そいで「一カ月に二回ぐらいオレんとこに『できたか?できたか?』って電話くれ。」って言ったの。
    そしたらま〜、アレもイイ子だねえ。
    一年間「できたか?できたか?」って電話くれたの!(大笑)
    だけれどもオレは一年目にはできなかったの。
    「わるいなあ、オレ、まだ知恵が良くまとまらないんだよ。」って言って。
    二年目になったらね、三年目になるとね…、
    もう電話くれなかったの。(大爆笑)
    その間にだよ、高一だった子がね、ICUに入ちゃったの。
    それくらいかかったの。
    それでね「う〜ん。」と思ってたら、いよいよもう学荘が始まるって時になって、バータバタバタバタとまとまっちゃったの。
    だけどもその時、布能にそう言ったのか言わなかったのか分かんないけども、それを発表したね。
    そおしたらコレはもう大喝采、大拍手。嬉しくて嬉しくてね。
    「トミさん、できたね。ボクもとても好きだよ。」なんて喜んだけどね。
    そうしたら、その頃に、え〜っとアレの兄貴がきたんだね、オンチ?あのね、画家でね、「恩」と言う字と、辞書の「辞」と言う字をかいて「恩辞」オンチコウシローって言ったかな?
    そう言う人がいた。
    その弟が学荘に来ていて、吉見なんかと同級だった。
    え〜っと、井ノ頭なんかにあるナンて言う学校だったかな…。
    セイケイじゃなくて、そう、明星を出てたんだ、彼等は。
    恩辞は。
    それで恩辞の兄貴がね、これは共産党っだったそうだけれども、あるとき学荘にきて、それは指人形なんかを指導したらしかったけれども、彼がのちに玉川学園の教師になった。
    そしたら「玉川学園歌集」に『ガラクタバンド』として載ったの。
    それである時NHKから「ガチャガチャバンドについてお伺いしたい。これはアナタの作品ですか?」って。
    「そうです。」って言ったら、東洋英和の中学部に訪ねて来て「ガチャガチャバンドとガラクタバンドがありますがドッチがドッチなんですか?」って言うから「ああ、それはガチャガチャバンドですよ。玉川から一人、教師で来ていた方がいますから、多分そのアタリから言ったんでしょ。」って、「それは私もヤメていただきますから。」って。
    だけども、秋葉の黎ちゃんも『ガラクタバンド』って、学荘にいながらガラクタバンドって言ったことがあるから、そう言う言葉は世間にはあるんだと思うね。
    だけどアタシは『ガラクタ』ってえのは下品でヤダよ。
    『ガチャガチャ』ってえとこがイイんだよ。

    --でもアレができた後ぐらいにね、もうさっきミッチャンが言ったようにタライ叩いたりして、「ガチャガチャバンド大会をやりましょう。」ってやったのを覚えてます。

    --そんな楽しみを与えられたのは、アレがきっかけだったと思うのね。


  • 「記念撮影」

    --ここで皆で写真とろう。

    --ツユザキさん、誰か呼んできてよ。シャッター押してもらって

    --はいはい。

    そう?もうそんな時間?ほんとだ。ゴメンナサイね。

    --ってくださるんですか? --はい、撮ります。 --あ、お願いします。

    --トミさん、そこそこ。 --アタシのあたま押さえないでよ。

    --ハーイ撮りまーす。

    --撮る人が笑っちゃダメよ。 ( カシャ! )

    --何枚か撮ってください。 --もう一枚ぐらいは。

    --はい、もう一枚いきまーす。( カシャ! )

    --モリイさん、固くなってますよ。 ( カシャ! )

    --ハイ、どうもありがとう。 --どうもアリガトオね。

    --バンザイ三唱を--荘歌を一つ。

     --『山々高く』を。

    --放歌放吟はお断りしてます。

    --ほな、テープとめますよ。…ええっと…。

      --プツー

    このあとシラフのトミさんと酔っぱらいたちは、新宿駅までブラブラと歩き、各自楽しく家路についたのでありました。
    なお、記念撮影の写真は失敗していて写りませんでした。
    ブンガボン。

    1991年9月26日収録分  完  


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