私が一番最初にこの学校に来たのは、平成六年十二月半ばだったと思います。それは一本の電話から始まったのです。ここに子供さんを学ばせておられた神戸さんという主婦の方から平成六年十二月の半ば頃電話がありまして、「子供の学んでいる学校は東京文化学園といって新渡戸稲造が初代の校長さんをしている、森本厚吉がその後を継いでいて、非常に良い学校で娘も素直に育っている」というようなお電話だったのですが、十二月半ばというのは新年号を作るために新聞社は非常に忙しいんです。はっきり申しますと、これは大変なことになったな、この時期東京へ行くのは一日か二日つぶさなければならないな、と思ってしぶしぶ上京してまいりました。それは、その言葉の中に新渡戸稲造が初代の校長さんだったということと、もうひとつは森本厚吉がその後を引き継いでこの学校をもり立てたという説明があったからです。
私は学校時代、皆さんはあまり聞き慣れないと思いますが、日本思想史という学問をしました。日本思想史には必ず新渡戸稲造が出てまいりますし、有島武郎や吉野作造、内村鑑三の名前も出てまいります。もちろん、森本厚吉という名前も出てまいりました。森本厚吉の思想について深く学んだ訳ではありませんが、森本厚吉に関するおもしろい資料も見られるなと少し好奇心もあって参ったわけです。実際は非常に収穫がございました。ここに来て新渡戸稲造の直筆の物もいろいろ見せていただきました。そういうことで小林校長さん、森本さんにご案内いただきまして非常に収穫を得て帰ったのですね。で、正月を迎えて、本当は二、三回ぐらいの予定だったのですが、森本厚吉の大部の伝記資料と言うのを一冊いただき、それから五十年史をいただいた。この二つをいただいて、これは一年間連載出来るなと思って、連載を始めました。
連載を始めて、新聞に掲載されるたびにこちらの学校にファックスで送りました。それを小林校長先生が廊下に貼り出してくださって、それを見た女子生徒たちが森本厚吉のことを少しずつわかり始めてきたようです。こういうことがあったそうです。森本厚吉の銅像が今は入口の右側にありますが、実は以前、新渡戸稲造の胸像の所にあったんですね。そこへ行って、英語の試験の前に森本厚吉の銅像に触るようになった。何でだろうと思ったら、小林先生がこの方は英語の達人だと言ってたそうで、それを覚えていた女子学生は英語の試験で良い成績を収めたいものですから、足や膝や脛のところに触ったらしいですね。それまでには見られなかった良い現象だと思うんですけれども、触ることでも何でもいいんです、そういうところから創立者の精神を学んでくれるようになってくれればいいということで、私の連載も週二回ぐらいずつ始めさせていただいたんです。
まだ本論には入らず、ちょっと雑談をします。加藤武子さんという方がおられますが、新渡戸稲造のお孫さんです。世田谷の尾山台に住んでおられますが、私が森本厚吉の連載をしているということで十回分ぐらいずつお送りしていたんです。そうしましたあら、加藤さんも興味を持たれて、戦後この学校に一度も来られたことがない、ただ自分のお爺さまの新渡戸稲造が戦前ここの校長をされたことはもちろん知っていますが、森本厚吉にも一度か二度お逢いしていたそうです。戦後そういう関係にもかかわらず一度もこの学校に来ていなかったということで、私は加藤武子さんにいらしていただきました。ほとんど半世紀ぶりということで、あまりの変わりようにびっくりされていましたが、そういうことも縁になりまして、去年の九月に森本厚吉の銅像を正門脇に移して、その場所に新渡戸稲造の胸像を建てた、そういう経緯でございます。
新渡戸稲造 胸像
もうひとつ、なかなか良いこともございました。新渡戸稲造が住んでいた小日向台に石燈籠があったのですが、それが七十年、八十年経った今でもそのままあったんですね。その昔いろいろな学生が訪ねて来た家はもうなくなってしまいましたが、築山の所に残っていた石燈籠の一部をそのままにしておくのもということで加藤さんは気をやきもきして我々に提案があったのです。それを迅速に森本さんがやってくれました。盛岡市の先人記念館にその新渡戸稲造ゆかりの石燈籠を運ぶことが出来たんですね。これは森本さんの功績でございますが、森本厚吉と新渡戸稲造のつながりで実現出来た非常に良い出来事だということで、盛岡市長も市の先人記念館で加藤武子さんに賞状を差し上げるということまでありまして、盛岡が一時期沸いたこともあるんです。森本厚吉に関して連載を始めましたらなかなか良いことがありまして、私も内心一年間の連載を良かったと思っております。
以上は前置きで、森本厚吉の生涯に簡単に触れてみたいと思います。森本厚吉さんは皆さん多分ご存知だと思いますが京都府の舞鶴という所で生まれております。増山家に生まれて、森本家に養子に入るんですね。後で申しますが、新渡戸稲造と森本厚吉は非常に似ています。養子ということから、亡くなるところまでいろんなことが似ていますので、興味のある方は比べてみてください。
その養子先が学問を重んずる所だったようで、森本厚吉は英語に目覚めていくんですね。明治十年生まれで二十年頃から英語に目覚めていきます。かたっぱしから英語の本とか英語のもの何でも見るというようになっていきます。
明治二十年代後半に森本厚吉は新渡戸稲造という人の名を知ることになります。どういうことで知ったのか、今となっては分かりません。多分何かの雑誌で知ったのだと思います。新渡戸稲造がなかなか良いことを書いていたのでしょうね。そういうことで、この人に是非学んでみたいという思いで、東京でずっと英語を学んでいたんですが、矢も楯もたまらず北海道へ行くんですね。一番最初に行った所は北鳴学校というんです。これは大体ここを経て札幌農学校に入るという予備校的中学校なんですが、ここに入ってまさか新渡戸稲造に遭えるとは思わなかったのに北鳴学校に新渡戸稲造は教えに来てたんですね。で、もうこの学校で新渡戸稲造に遭うことが出来たんです。ここで新渡戸稲造は森本厚吉を非常に良くかわいがります。森本厚吉も新渡戸稲造が言うことを砂が水にしみこむように素直に聞くんですね。北鳴学校に学んだ後は自然に札幌農学校に入ります。明治二十年代の後半、札幌農学校に入りまして新渡戸稲造や新渡戸より一級上野佐藤昌介という、後に校長になりまして明治から大正にかけて札幌農学校がつぶれそうになった時期をもり立てた人に学んで影響を受けます。
この二人は先生としてですが、生徒としては有島武郎とここで知り合うんですね。有島武郎はほんの少し前に札幌農学校に入っていました。森本厚吉が驚いたのは、有島武郎が自分の尊敬する新渡戸稲造の家に住んでいたんですね。そのために、有島武郎という人物にどこかひかれるところがあったと思います。そういうことがきっかけで、この二人は非常に仲が良くなります。運動会とか、今日のような祝賀会をほっぽり投げて二人で札幌の定山渓とかいろんな所へ遊びに行くんですね。それから温泉にも二人で入りに行くんです。で、この二人はキリスト教に入ります。最初、有島武郎は入らないと言うんですけれども、森本厚吉がそれをなだめて、いろんな所へ連れていって勧誘するんですね。それで遂に入るんです。有島武郎の家はキリスト教と関係のある家ではございません。お父さんは南の方ですが、あ母さんは盛岡の(盛岡は江戸時代「南部藩」と言われていましたが)南部藩の武士の娘でキリスト教には全く関係ないんですね。ですから、お母さんもお父さんも非常に有島武郎のことを心配したり怒ったりしたようですが、いずれ森本厚吉の勧誘が効を奏して、二人でクリスチャンになっていくんですね。
最後には、でも非常に大きくこの二人は別れます。喧嘩別れとかそういうことではなく、大きく道が違っていきます。おもしろいことに、この二人は助け合って勉強もして、良い成績で終わるんですが、卒業試験の前にリビングストンというアフリカの探検家の伝記を作るんですね。これは本当に卒業の試験と並行してやっていたと思うんですが、二人とも英語が達者ですから読み合って、その良いところをピックアップして、日本で初めてリビングストン伝を作ります。ここの学校の図書館にもございます。ご覧になってください。本を作ると大体誰それに捧げるというふうなことをやるんですが、この二人は誰に捧げたか、新渡戸稲造ですね。新渡戸稲造先生に捧げるということを扉を開けてすぐの所に書いています。それくらい、この二人にとって新渡戸稲造は非常に大事な、感銘を受けた、尊敬した先生だったんですね。詳しい本の内容は私もよく分かりませんので、何とも言えませんが、そういう感銘を受けて「リビングストン」伝を作って卒業します。
卒業の前にですね、この二人は人生問題で悩みます。悩んだ時に新渡戸稲造が与えてくれた本があるんですね。これは「サーターリザータス」という本でカーライルが書いた本なんです。これは新渡戸稲造もその二十年前に札幌農学校で悩んで遂に行き当たった本です。で、この本によって新渡戸稲造も悟りを開いたというか、分かったんです。どういうことが分かったかといいますと、キリスト教を信じて、ああでもない、こうでもないというよりも、とにかく信じきることが大切だという、そういう本でございます。信じきることの大切さを物語風に書いたものですが、最後にそこに到達して新渡戸稲造は悟りを開いたといいますか、気持ちが明るくなった。それが新渡戸にはあったものですから、この二人にそういう本を与えたんですね。この本によってこの二人は明るい気持ちで札幌農学校を卒業していきます。
卒業してから森本厚吉がどこへ行ったかといいますと、一直線にここには来ません。仙台に東北大学がありますが、私立では一番有名な東北学院大学という学校がああります。学院がつくのは大体クリスチャンの系統なんですが、この東北学院に招かれます。森本厚吉が何でここの教師になったかといいますと、ここがクリスチャンの学校だということが一つの理由です。もう一つはバイオリンが出来るということだったそうです。森本厚吉は、私は聞いたことはないんですが、文献を読む限りではバイオリンはそんなに上手ではなかったとは思います。でも、バイオリン好きだったということは確かです。バイオリンを弾いている写真がいくつかございます。そういうことで東北学院の先生に就職します。ここで森本厚吉は教えている間に、北海道農民をどうにかしようという(卒論は北海道農民に関してなんです)そういう気持ちが少しずつ消えうせていくんですね。で、むしろもう一回外国で学びたいという気持ちになりました。
二十年前、新渡戸稲造が日本から出ていって学んだ大学、これがジョン・ホプキンスだいがくですが、ボルチモアにございます。そのジョン・ホプキンス大学に留学するんですね。これは森本厚吉に非常にカルチャーショックを与えたと思います。いろんなことは何も書いていませんが、外国の当時の生活を見ると言う事は非常なカルチャーショックだと思いますね。明治三十年代に行くんですが、今から約百年前です。百年前の日本というのは想像出来ると思うんですが、そういう時にアメリカへ行ってアメリカの生活を見ると大変な違いなんですね。で、何を一番思ったかというと、日本の生活水準を上げないと駄目だ北海道農民のどうのこうのと言っていられない。そういうふうなことを森本厚吉は痛烈に感じたはずです。これは私の推量なんですけれども。そういうことで、帰ってきまして札幌農学校の先生になるわけですが、消費経済学という方向に段々進んでいきます。で、卒論のときの北海道農民と言うのが次第に薄くなっていくんですね。消費経済、日本人の生活水準を上げようという方に目が向いていくようになります。
一方、有島武郎はどうかといいますと、有島も留学はするんですが、帰ってきて皆さんご存じのように文学の方に打ち込んで、いろんな小説を書きますね。子供向けの小説である「一房の葡萄」とか「カインの末裔」とかいろんなものを残します。「一房の葡萄」は、私も小さい時先生に読んでいただいて大変感銘した思いがあるんですが、これを書いた方は非常に優しいんだなあと思ったことがあります。その人のことを今日ここで喋るなんてことは思いもよりませんでした。いずれ有島武郎という方は優しい方なんだなということは、文章からだけでなく話の筋道からもよく分かるんですね。そういうことで有島は文学にのめり込んでいくんですが、大正十二年六月、関東大震災のほんの三か月前に軽井沢で女性の雑誌記者と心中するという結末を迎えます。
森本厚吉はその時にですね、その何日か前に電話しようと思っていたそうです。北大から上京して東京で講演があるというので、ちょうどここまで来たから電話しようとした時に眼鏡を落としたそうです。森本厚吉は若い相当の近眼だったそうですが、そのために電話帳の番号が見えず、有島武郎に電話が出来ずに講演をしてしまいます。終わった後に少し気がかりだったので電話をしますが、身内の女中さんみたいな人が出て、主人は外出中ですというのが二度も続くんですね。少し変だなと思ったんですが、森本厚吉はそのまま北海道へ帰ります。それから一月後、新聞で発表になり、森本厚吉は非常にびっくりするんですね。あの時、眼鏡を落とさないで電話が出来ていれば、有島の気持ちをもう少し開けたのではないか、と書いています。
ちょうど一か月位前ですかね、日本経済新聞に有島が最後に森本厚吉に宛た手紙が大きく発表されていましたが、ご存じだと思います。最後の最後に森本厚吉に書いているんですね。それほど森本厚吉のことが気になって有島武郎は亡くなったんです。このことはもっともっと森本厚吉の側から研究すれば面白いのではないかという感じがします。その後に子供さんの武也さん、文子さんを連れて有島が眠っている多磨墓地に行ったそうです。そして、説明をしたそうですが、森本厚吉は涙が出てくるし、子供さん達も泣きじゃくるし、大変だったそうです。それから数か月後、旅行をしようということで森本厚吉はバッグにいろんな物を詰めて娘さんに点検させたところ、その中に紐のようなものがあったんですね。それを見た娘さんがその紐を放り投げたそうです。どうして投げたのかと森本厚吉が娘さんに聞いたそうです。すると、お父さんも有島のおじちゃんのようになってはいけないからと言ったそうです。だから、有島がどういうふうにして亡くなったのか娘さんも子供ながら良く分かっていたんですね。
森本厚吉とその家族
そういうふうにしている間に森本厚吉は日本人の生活水準を上げなければならないということで、「文化生活研究」という雑誌を大正の半ば過ぎあたりから創刊するんですね。この雑誌、売れ行きはそんなに良くなかったと思うんですが、日本の当時の知識階級に与えた影響は非常に大きかったと思います。一番のここの同志だった吉野作造(宮城県古川市出身)という方が文化生活に良く書いてくれた。吉野作造といえば中央公論に大正デモクラシーの論陣を張った人として有名なんです。実は吉野作造の研究をするともっと分かるんですが、この森本厚吉の発刊した文化生活研究に吉野の論が意外に載っているんですね。何も中央公論でなくてもいいんですが、吉野作造の論はこの文化生活研究の方でもっともっと研究されて然るべきだと思います。
写真左から有島武郎、森本厚吉、吉野作造
この吉野作造と有島武郎と三人は仲が良かったもので、ある時に講演に招かれたそうです。有島が亡くなる少し前のことです。それで三人が夜、旅館で三人のうち誰が一番最初に亡くなるだろう、または誰が一番最後まで生き残るだろうと話したそうです。その時に森本厚吉が一番最初に亡くなるだろう、それはどういうことかと言うと三人は良くわかっているんですね。森本厚吉が一番仕事をし、苦労が多いから先に亡くなるだろう、二番目は吉野作造が、有島武郎が一番鷹揚でゆったりしているから最後まで残るだろうと三人で想像し合ったそうです。でも、一番最初に亡くなったのは有島武郎で、大正十二年でした。その後、吉野作造は昭和八年に亡くなり、森本厚吉は昭和二十五年まで生きますので一番長生きしたんですが、長生きと言っても七十三前後ですから、他の二人が少々早かったんですね。森本厚吉がこの文化生活研究の雑誌の中で非常に面白いことを言っています。
「男女七歳にして席を同じうせず」これは戦前まではよく言われていますが、森本厚吉はそんなことは言いません。「男女七歳前から席を同じくしなさい」と言っています。これは非常に面白い論ですね。男女は同じ教室で一緒に学んだり、一緒にいろんなことをするべきだ、そうでないとお互い変に崇め奉ったり、変に相手をけなしたりしがちだから、七歳よりずっと前から一緒に行動しなさいというふうなことを明治の末から大正にかけて言っているんですね。それから、その当時は五人や十人位は普通だったと思うんですが、子供さんが多いと生活が楽でないし、自分達のやりたいことが出来ないから駄目だと言うことで、産児制限にかけて子供は三人まで、と言って、そういうふうなことを実行した方です。
それから、結婚ということにも言及していまして、良い結婚をするべきだ、良い結婚とはどんな結婚かということを書いています。当時の女性の結婚年齢は二十歳頃ですが、それでは早すぎる、まだいろんなことが分からないうちにあまりにも早く結婚してはいけない、ということで男性は二十八〜二十九歳、女性は二十五歳くらいにしなさいと言っています。じゃあ早婚は駄目で晩婚が良いかというと、晩婚も駄目だというふうに自分の標準をしっかり決めているんですね。これはアメリカへ行っていろんな例を見てのことなんでしょう。それから、森本厚吉といえば、皆さんもご存じだと思いますが、沢庵亡国論ということで、沢庵を食べながら、違うものも食べると良いと言ったんだそうですが、それが世の中に変に伝わって沢庵ばかり食べていては頭がうまく働かない、と誤解されたんだそうです。森本厚吉自身は沢庵が大好きでした。
「文化生活」を出しているうちに、いろいろ不便を感じたのかどうか、東京に居を定めようという気持ちに段々となっていくんですね。そういうことで北大を辞めようとするんですけれども、当時の総長であった佐藤昌介がなかなか許可を出さないんですね。この総長の補佐役で森本厚吉は尽力するんですが、その補佐役がまた非常に素晴らしかったもので、佐藤昌介は放さないんです。写真がいろいろ残っていますが、最前列のどまんなかに佐藤総長がおり、森本厚吉はそのすぐ横におります。佐藤昌介は非常に森本厚吉も可愛がったんですね。ついに許可が得られたのが昭和七年ですね。
でも、実はその前に生活水準を高めようという実践の最大のものとして文化アパートメントを建てるんですね。これは大正の末です。森本厚吉が北大の教授の時代です。ですから森本厚吉の家は北海道にあったんですが、文化アパートメントは東京に建てたんですね。こういう生活をしている間に、森本厚吉はどうしても北海道から抜けなければならないと考えたと思います。昭和七年に佐藤総長から退職の許可が出るわけですが、皆さん今日は創立七十周年ですね。昭和二年にこの学校が建ったということは、数年のずれがあると不審に思われるでしょうが、そういうことなんです。森本厚吉は二重生活をしていたわけですね。そう言う不便さを感じながら生活をしていたので、最後にはこちらの方へ一家揃って引き上げるということになります。
文化アパートメントは大正15年に建ちました。これは素晴らしいアパートです。森本厚吉が海外へ三回行って見てきたいろいろな技術から家内道具から、当時の最先端のものをここに備え付けております。私は文化アパートメントのことを非常に知りたくて、一昨年、文化アパートメントを知っていらっしゃるここの卒業生三人にお集まりいただき、お話をうかがいました。中には九州から来てくださった方もいます。いつかはこの文化アパートメントについて本を出したいと思っているほどです。これが次の女子経済専門学校につながる布石になるんですね。昭和二年に始まった学校が、昭和三年に女子経済専門学校に名称を改め、ここで新渡戸稲造を招くんです。
新渡戸稲造を招く経緯を少し遡って言います。新渡戸稲造は札幌農学校を終えた後、アメリカのジョンズ・ホプキンス大学やドイツを回ったりして、明治二十四年に日本に戻って来て札幌農学校で教えるんですが、明治の三十年代は後藤新平に引っぱられたような形で台湾の製糖事業に従事します。それから三十六年に京都大学の教授になります。三十九年には旧制一高の校長になります。これは現在の東京大学の教養学部の前身なんですが、ここで大正二年まで、あしかけ七、八年ほど男子生徒に非常な感化を与えます。大正二年に終りまして、数年後、東京女子大学の学長になります。これが大正の半ばですね。それから国際連盟の事務局次長として大正の半ばから昭和の始めまで活躍するんですが、昭和二年に戻ってきたところに森本厚吉が白羽の矢を立てるんですね。
その時の状況をちょっと言います。本当は名誉校長という、ほとんど自由な状態で、と思ったそうで、昭和二年の暮れか昭和三年の初めに森本厚吉は新渡戸稲造とひさしぶりに会います。名誉校長にでもということで伺うんですが、新渡戸稲造は話を聞いているうちに名誉校長よりも実際の校長になりたい、校長になってもいいんだと言います。森本厚吉は自分自身が校長にと考えていたんですが、自分が校長になると誰も叱ってくれる人がいないから、そういう人が欲しいと思っていたので願ってもないこととお願いします。そこで校長として新渡戸稲造は昭和三年四月に来ます。
新渡戸がこの学校に来てからどういうことが起こったかというと「教職員の心得」というものを作ります。その一番初めにあるのは、『人の子を預かるには親心を持って……』という言葉です。これは新渡戸稲造が常にしていることなんですが、「教職員の心得」にそういうものを入れたというのは新渡戸らしいし、特徴でもあります。もう一つ、真中へんに一分間の沈黙をしてから授業に入りなさいと言うのがございます。これは今もこの学園でしていられるようですが、これは新渡戸が札幌農学校で教えていた時にやったことなんですね。自分で心の整理をして教室に臨んだという、そのことを女子経済専門学校に飛び火させたところが新渡戸らしいという感じがします。
それから皆さんよくご存じの三Hですね。HEAD、HANDS、HEARTこの三つを持ってということは新渡戸稲造、森本厚吉のラインでないと考えられない非常に素晴らしい言葉だと思います。それから後光を放つ人間とさっき湊先生がおっしゃいましたが、この後光を放つ話を最後にされて昭和八年、カナダへ旅立ったのです。新渡戸自体が非常に後光を放っていた方だったんではないかなと感じています。私は、森本さんのお宅に残っている写真をいろいろ見せてもらいましたが、新渡戸稲造が女生徒に囲まれて楽しそうにしている写真がいっぱいございます。そういう校長先生は当時なかなかいないと思いますね。女性の先生ならまだしも、あの時代に、七十前後とは言え男性の方が女生徒に囲まれてにこにこしている風景と言うのはないと思います。これは非常に面白い光景だなと思います。実は新渡戸は女生徒の前でそういうふうににこにこしておりましたので、女生徒の皆さんは多分知らなかったんでしょうが、本当は昭和二年から五年にかけて新渡戸の周囲は非常に大変な時代だったんです。日本に帰って来て松山で新聞記者に意見を求められて、これはオフレコなんだが日本を滅ぼすのは軍閥と共産党だというふうなことを言ったんです。新聞記者はよくやるんですけれども、オフレコを書いてしまうんですね。それが出てしまって新渡戸稲造は大変なことになります。石を投げられたり、脅迫まがいな電話とか書簡とかをもらって大変な時だったんですね。それを感じさせずに、この学校ににこにことやって来て、女生徒と一緒に運動会で走ったりした。そういう状態を女生徒が分かるはずがありません。私はこの学校が、新渡戸の晩年をなぐさめ、気持ちをゆっくりさせた唯一で最後の学校だったと思います。
附属高女卒業式(昭和11年)前列中央が森本厚吉
ところが新渡戸は日米関係の悪化を調節しようとカナダへ発ちます。実は森本厚吉も昭和七年、新渡戸が発つ前の年ですが、アメリカへ発って何十回も講演をしています。これも日米関係を修復するための講演です。その翌年に先生である新渡戸稲造はカナダへ発ちます。太平洋会議に出て日米関係の修復をはかろうとするんですが、それも果たせないまま、あちらの方で昭和八年十月半ばに亡くなるんですね。森本厚吉は翌々日位に聞いたと思うんですが、非常にびっくりしたと思います。生徒さん方ももちろんびっくりして、泣く生徒さんもいっぱいいたというふうに書かれています。この昭和八年は森本厚吉にとって大変な年です。昭和八年の春、文化生活研究を一緒にやって来た吉野作造がまず亡くなります。その前にもちろん、有島武郎が亡くなっています。そして昭和八年の秋、新渡戸稲造が亡くなります。こうやって森本厚吉を助けてくれた周辺の方々がほとんど亡くなっていきますね。ですから、非常に大変な時期だったんですね。長女の文子さんの結婚式が昭和八年十二月にあったんですが、一時はそれも忘れたかと思うほどの落たんぶりだったと書いています。
そんなことで、新渡戸稲造、有島武郎、吉野作造というように、同志や先生が亡くなっていくので寂しかったと思いますが、森本厚吉はすぐその翌年に新渡戸記念館を建てようと尽力します。これは新渡戸稲造の遺品などを集めるものではなくて、新渡戸の精神をこの記念館に宿させようというものだったと思うんです。こういうことを地元の盛岡ではなく東京の方がやるというのは森本厚吉でないと出来ないなという感じがしますが、非常に尊いと思います。盛岡はその後塵を拝して、戦前はそういうことはございません。戦後少しずつ新渡戸稲造の資料を集めて先人記念館を建てますが、森本厚吉はそれを亡くなったすぐ翌年に実行された。ところが、さっき湊先生がおっしゃいましたが、、昭和十一年、十三年、十五年と新渡戸記念館が三度の火災に遭うんですね。それでも森本厚吉は「Try again!」で何度でもやって最終的に今の建物が残っています。森本厚吉のそのエネルギーには驚嘆します。普通は一度焼けるとヘナヘナになって二度目は建てられないものなんですが、二度目が焼けてもまた三度目に挑戦する。これはなかなか出来ないんじゃないかという感じがします。
戦争中、どういうふうにこの経専が推移したかということなんですが、一つおもしろいのは奉安殿を設けなかった(代りに金庫を使っていたようですが)。これは学校としてあまり出来ることではないんですね。だからといって森本厚吉が天皇陛下、皇室崇拝主義ではなかったかというと、そうではないと思うんですが、奉安殿を設けなかったということは非常に勇気があることだと思います。それからもう一つ、あの時代(戦争中です)に英語を学ぶとことは敵性語として禁止されたんですが、森本厚吉は敢然としてそのまま学校で続けて英語を教えています。むしろ心配して「アメリカと戦っているのに英語を学ぶのはおかしいんじゃありませんか、ドイツと手を組んでいるのだから、先生、ドイツ語をやりましょう」という生徒さんがいたそうですが、森本厚吉は時代を見透かしていた感じがします。いや、そんなことはないんだ、ずっと英語を学んでいこうということで、学ぶんですね。これはなかなか出来ることではないと思います。それからもう一つ、今、私は全く歌えなくて、皆さんの校歌を棒立ちで聞いていたんですが、三番目の「自由のゆくていかに曇るも」という表現がこの校歌にあるというのは、新渡戸稲造が尊敬したジャンヌ・ダルクの精神を森本厚吉もやはりどこかで継いでいるのかなという感じがします。
戦後を迎えて昭和二十五年の一月に森本厚吉は亡くなります。橋本寛敏先生とか皆さんのご尽力があったのですが、七十三歳でした。その前の年に私が生まれましたから、私が半年位の時に森本厚吉が亡くなったんだなと思うと感慨深い感じがします。その後、奥様の静子さん、ご子息の武也さん、大浜先生から現在の大久保理事長とつないで、こういう繁栄をされているわけです。
最後に少し大久保さんの話をさせていただきます。大久保理事長は、私が知らない時に一緒の土地に十数年間住んでいました。大久保さんは今でこそここの理事長さんですが、そのずっと前は秋田県の県北にある大館という町の北の花岡鉱山という鉱山の所長さんでした。学習院から東大の工学部を出られ、鉱山の所長をやられていました。私は昭和二十四年に生まれてずっとそこに住んでいましたが、大久保さんはその頃から昭和三十年代まで十数年間そこの所長をやられていました。うちの親父がその花岡鉱山という所に勤めていました。親父は末端の従業員でした。大久保さんは大所長です。そういう関係があるなんて私は全く知らないで、この学校を訪れました。そうしたら大久保さんの方から「藤井さん、私は昔、花岡鉱山にいたんですよ」という話になり、私はもうびっくりしまして、この学校から帰って親父に大久保さんのことを言いましたら、うちの親父もびっくりしていました。大久保さんにぜひともいつかお会いさせたい、もう八十歳になんなんとする親父ですが、こんな席を借りて言うのもなんですが親父に(私的なことでごめんなさい)いつか大久保さんとご対面させたいと思っています。
いずれ八十年、九十年、百年の節目には、それぞれこんな祝賀会が催されると思いますが、是非共私は八十年の時も九十年の時も百年の時も参加させていただきたいと思っております。百年迎えるとなると三十年後です。私はもう七十八、九歳になります。本当に参加出来るかどうか分かりませんけれども、生きていたら是非とも参加したいと思っております。
森本厚吉から学んだことはいっぱいあります。伝記を書くたびに私は人間の生き方というものを学びます。森本厚吉からは元気良く、人の数倍働いて、人のために何倍も尽くして、亡くなったらそれはそれでいいんじゃないかという闊達な精神を学びました。
今日はそういうことで私の人生にとって、いい思い出に残しておきたいと思います。本当に私のつたない話を最後まで聞いていただいてありがとうございました。
七十周年、誠におめでとうございます。
(平成九年十月二十五日 於東京文化学園講堂)
藤井 茂 (ふじい しげる)
現職 盛岡タイムス社・社会学芸部長
略歴 昭和二十四年六月二十二日、秋田県大館市生まれ
主な著書 「菊池寿人の生涯」「山屋他人」
現住所 盛岡市
※本文は東京文化学園発行講演録小冊子「創立者森本厚吉のこと」(1998)より