明治一〇年 | 三月、増山純一郎三男として京都府舞鶴田辺に生まれる | ||
明治二三年 | 四月、舞鶴明倫高等小学校卒業 | ||
明治二四年 | 五月、横浜英和学校入学 | ||
明治二五年 | 六月、同校退学。
九月、東京東洋英和学校普通科入学 | ||
明治二七年 | 六月、同校普通科卒業。
九月、札幌私立北鳴学校第五年級入学 | ||
明治二八年 | 三月、同校全科卒業。
七月、森本活造の養子となる。 同月、札幌農学校予科第四年級入学 | ||
明治三〇年 | 七月、同校予科卒業。
同月、札幌農学校本科入学 | ||
明治三四年 | 三月、有島武郎と共著「リビングストン」を警醒社より出版 | ||
明治三四年 | 七月、札幌農学校本科卒業(卒業論文、農民論)。
八月、仙台の私立東北学院教授となり歴史及び経済学を担当 | ||
明治三六年 | 七月、洋行のため依願退職。
八月、米国ジョンズ・ホプキンス大学大学院入学(経済学及び歴史学専攻) | ||
明治三八年 | 十月、同大学院退学。
同月、ボストン市レットパス講演協会講師となり、米国東部諸学校にて講演 | ||
明治三九年 | 一月、シカゴ市ウインチェル講演協会及びヒッパルグ市デイタノン講演協会講師となり、米国中部諸州を巡講。
九月、帰朝。 十月、札幌農学校講師を嘱託(英語歴史及び農史を担当する) | ||
明治四〇年 | 七月、米国学事視察のため渡米し、米国連合夏期学校の歴史経済講師に任用され、中部夏期学校で二十九回講演し、八月下旬帰朝。
九月、東北帝国大学農科大学予科教授に就任。 同月、学長付主事を命ぜられる。 同月、山角静子と結婚 | ||
明治四一年 | 六月、東北帝国大学農科大学助教授に就任 | ||
明治四二年 | 十月、日英博覧会出品英文大学一覧編纂委員を命ぜられる。
十二月、東北帝国大学農科大学教務主任を命ぜられる | ||
明治四三年 | 七月、長女文子誕生 | ||
明治四四年 | 五月、小樽高等商業学校講師を兼任、経済学を講ずる。
十一月、自宅(大学官舎)火災、学位請求論文焼失する。 同月、長男武也誕生 | ||
大正 二年 | 七月、次女和子誕生 | ||
大正 四年 | 七月、東北帝国大学農科大学で経済学及び財政学の講座を担当。
九月、経済学及び財政学研究のため満二ヶ年間米国へ留学。 十一月、ジョンズ・ホプキンス大学大学院にフェローバイ・コーテーシーとして入学 | ||
大正 五年 | 六月、ジョンズ・ホプキンス大学大学院の選抜により米国名誉学会「ファイ・ベータ・カーパ・ソサエティ」の会員となる。
同月、ジョンズ・ホプキンス大学大学院へ博士論文を提出。ドクトル・オブ・フィロソフィー(経済学)の学位を受ける。 | ||
大正 六年 | 七月、依願留学期間を大正七年二月二十八日まで延期 | ||
大正 七年 | 四月、北海道帝国大学農科大学助教授(官制改正)。
同月、北海道帝国大学教務部長を命ぜられる。 七月、法学博士(総長推薦)の学位を受ける。八月、北海道帝国大学農科大学教授に就任。 九月、北海道庁より農家食糧に関する調査の委嘱を受ける。この年、「The Standard of Living in Japan」をジョンズ・ホプキンス大学より出版 | ||
大正 九年 | 三月、同文館より「生活問題」を出版。
四月、講義録「文化生活研究」を四ヶ年にわたり刊行。この年、文化生活研究を組織し事務所を東京銀座警醒社内に置く | ||
大正一〇年 | 六月、月刊雑誌「文化生活」を文化生活研究会より出版。のちに普及会に出版が移される。この年、「私どもの主張」を文化生活研究会より出版 | ||
大正一一年 | 七月、農政学及び農業経済学講堂主任を命ぜられる。
八月、有島武郎氏狩太農場を開放し、その経営を依頼される。 十月、「新生活研究」を文化生活研究会より出版。十二月財団法人文化普及会を設立。事務所を東京市本郷区元町一丁目に置く | ||
大正一二年 | 六月、有島武郎自殺 | ||
大正一三年 | 三月、森本家、札幌より東京に移転。
七月、「ほろび行く階級」を同文館より出版。八月、「成長する愛の生活」を同文館より出版。 | ||
大正一四年 | 六月、「話方の経済」を広文堂より出版 | ||
大正一五年 | 一月、「アパートメント・ハウス」を文化普及会より出版。
七月、文部省より米国に出張を命ぜられ同年十一月十五日帰朝。 九月、「創造の生活」を文化普及会より出版。 十二月、文化アパートメント開館 | ||
昭和 二年 | 二月、女子文化高等学院を創設、森本静子が院長に就任し四月開校。
同月「今日の問題」を文化普及会より出版 | ||
昭和 三年 | 三月、財団法人女子経済専門学校(学院昇格)を設立し理事長に就任。
同月、月刊雑誌「文化生活」を「経済生活」に改題。 四月、新渡戸稲造が校長に就任。森本厚吉は副校長に就任。 六月、北海道帝国大学より欧米各国へ出張を命ぜられる。 | ||
昭和 四年 | 一月、欧米各国を視察して帰朝。
十一月「苦悶の経済生活」を広文堂より出版 | ||
昭和 五年 | 一月、「女子経済専門学校同窓会会報」を創刊 | ||
昭和 六年 | 三月、成美高等女学校を付属高等女学校として併合し、新渡戸稲造が校長に就任。
十一月、「公民の知識」を四条書房より出版 | ||
昭和 七年 | 三月、北海道帝国大学教授を依願退職。
四月、女子経済専門学校に家庭科を設置。 十二月、付属高等女学校校友会誌「いずみ」を創刊 | ||
昭和 八年 | 四月、専門学校に商科を設置。
十月、新渡戸稲造校長、カナダにて逝去。森本厚吉、専門学校及び付属高等女学校校長に就任。 十二月長女文子結婚 | ||
昭和 九年 | 六月、「経専タイムス」を創刊。
九月、新渡戸記念館落成、専門学校をお茶の水より中野に移転し、授業開始 | ||
昭和一〇年 | 五月、次女和子結婚 | ||
昭和一一年 | 四月、校舎一部焼失、現新渡戸記念館着工式 | ||
昭和一二年 | 三月、新渡戸記念館(鉄筋コンクリート)三号館完成 | ||
昭和一四年 | 二月、板橋区に第一農場を設置。実習の家を新築。
四月、専門学校に裁縫科設置、五号館完成 | ||
昭和一五年 | 五月、経専寮落成。
六月、「消費経済」を大日本図書株式会社より出版 | ||
昭和一六年 | 二月、四号館成る。
五月、長男武也結婚 | ||
昭和一七年 | 四月、専門学校に家事経済科と家事理学科設置。
七月「経専タイムス」を「経専学報」と改題 | ||
昭和一八年 | 一月、桃園寮を設置。
三月、北多摩郡に小平農場を設置。この年、「文化アパートメント」閉鎖 | ||
昭和一九年 | 三月、女子経済専門学校を東京女子経済専門学校と改称、専門学校に経済科、保健科及び育児科を設置 | ||
昭和二〇年 | 三月、家庭科、裁縫科を廃止 | ||
昭和二一年 | 二月、長野県に木曽産業学校を設置、戦災復興事業に着手。
三月、専門学校に英文科を設置。 同月、「文化生活」を復刊。 同月、家事経済科と家事理学科を廃止。 四月、木曽産業学校を開校し文化普及会工場とする。 同月、東京経専幼稚園を開園。 七月、元米人メレル・ヴォーリス氏より一五坪能率型住宅設計図及び仕様書到着 | ||
昭和二二年 | 二月、木曽産業学校より教員及び生徒十名上京。桃園町において十五坪能率型住宅一号館建設に着手。
四月、桃園町邸宅が連合軍総司令部に接収される。 同月、新学制により東京経専中学校、同高等学校校長に森本厚吉が就任。 八月、木曽の事業を譲渡 | ||
昭和二三年 | 七月、「文化生活」復刊第四号で廃刊。
十一月、創立二十周年記念式典を挙行、芸術の会を開催 | ||
昭和二四年 | 二月、脳溢血にて卒倒。
三月、学制変更により付属高女廃止、専門学校育児科を廃止。 四月、専門学校に臨時に別科(経済科家政科)を設置、森本厚吉が幼稚園園長に就任し八号館成る。 五月、「家政学通論」を大明堂書房より出版。 九月、病気回復し、令息武也宅より桃園町の自宅へ移る。 十二月、病気悪化 | ||
昭和二五年 | 一月三十一日逝去。
二月十一日、キリスト教式による学園葬を執行。遺骨を多磨墓地に納む。 二月、森本静子が校長及び園長に就任 |
藤井茂著「森本厚吉 新渡戸稲造の愛弟子」(盛岡タイムス社刊)所収