ブラジルで出会った日本人

大出春江

 わたしがブラジルに行ったのは文化タイムズ(平成12年12月10日 第338号に掲載。【随想、その他】にも公開)にも書いたとおり、「出産・出生のヒューマニゼーションに関する会議」に参加するためだった。ブラジルのセアラ州フォルタレーザにおけるこの会議で得たものは、まだまだまとまらないほどたくさんあるが、ここでは少し別のことを書きたいと思う。それは今度の会議を通して出会ったブラジルで働く日本人のことである。
 ホテルで、たまたま同宿することになった田嶋さんという女性がいた。彼女は同志社大学を出てから、国際ボランティア団体で仕事をし、数年間、カンボジアの難民キャンプで活動をした後、アメリカのミネソタ大学修士課程で公衆衛生学を学んだ。同じ活動を通じて知り合った彼女の夫と二人で奨学金で学生生活をしたという。修士号を取得後はハワイでエイズ患者のためのカウンセリング・センターで数年間働いた。経済的にはけっして豊かではない、というよりぎりぎりの生活を送っていたという。けれども、子どもには十分な教育をと考えていたので、記入するだけで5時間はかかる申請用紙を埋め、National Certified Poor Parents(略称はNCPP。日本で言うと生活保護世帯ということになるのだろうか)として正式に認められ、高額だが質の高い私立幼稚園に一人娘のお嬢さんを通園させることができたそうだ。
 「どうしてあなたのような家で、あんな幼稚園にお嬢さんを通わせることができるの?」と現地の友人から聞かれるたびに、彼女はNCPPのことを説明してあげたのだそうだ。応募書類作成は大変手間がかかるが、時給に換算すれば、こんな高額なアルバイトはないと彼女は屈託がない。
 その後、彼女の夫がタイでJICA(国際協力事業団)長期専門家として赴任することになり、彼女ははじめて専業主婦になるが、しばらくして、JICAの短期専門家に応募し、3ヶ月の予定で単身赴任。セアラ州の隣にあるピアウイという地域の事前調査に訪れ、今度の会議に参加するためにピアウイからやってきた。
 この会議開催中に会ったもう一人の日本人男性。この方もどういうわけか同志社大学の卒業生だったのだが、ブラジルに農業移住をするつもりで何の縁故もなくブラジルにやってきた。病気が原因で障害をもった少女に出会ったことがきっかけになって、医者になることを決意した。現地の高校に入学し、ポルトガル語を習い5年かかって卒業し、その後現地の大学医学部に進学。6年の課程を8年かけて卒業したという。general practitionerとして診療活動を始めて1年あまり。わたしがこの会議に参加するきっかけを作ってくださった友人の藤原美幸さん(本プロジェクトJICA短期専門家)によると、彼の住む地域では、彼は「セイント(Saint:聖なる)シモカワ」と呼ばれているという。
 精悍な外貌のがっしりした体躯の持ち主で、日本というよりブラジルがいかにも合っている印象を受けたが、なによりも、ひたむきな感性と行動力には大変印象づけられた。田嶋さんも下川さんも40代前半の人たちで、わたしより何歳か若い人たちだ。
 ブラジルで出会ったお二人は、人生はお金をたくさん稼いで高価なものをもつことが幸せへの道ではなく、自分のために人のために生きること、そのためには貧しい生活も時には明るく生き抜くこと、そのようにして生きることも心豊かな生き方だということを教えてくれた。こうした出会いは国際会議への参加で得たこととは別の、わたし自身のための大きなブラジル土産になった。

出典:文化生活 平成13年3月10日 第40号 p.47





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