-3- 第252号 |
| 昭和52年10月11日 |
浅間教室体育実技講座実施
真楽寺競歩、八子ヶ峰登山など
秋晴れの中で盛況裡に終わる
例年一年次学生を対象として実施している夏季体育実技講座・浅間教室は、去る九月一〇日(土)より第一次隊(一DB)八六名、九月一二日(月)より第二次隊(一DA)八六名、九月一四日(水)より第三次隊(一TC)九〇名の計二六二名が参加した。
本年度は学校暦変更のこともあ。て昨年より約一過間程度遅れて東京文化学園浅間高原寮で実施したが、どのグループとも天候に恵まれ、一人の事故もなく盛況裡に終始した。日程は例年とほとんど変わ。ていないが、その概要を記すと次のとおりである。
第一日は、午後一時環地集合、開講式の後、体育担当の緑川講師より約一時問、身体の健康についての基腱理論。 それに続いて夏休みで硬くなっている身体をほぐすため、タオルを用いての柔軟体操これが想像以上の運動量でみっちり扱えられた。四時から真言宗の名刹、真楽寺への全員競歩。稲穂の色づいた高原を渡る風はすっかり秋であって大変快かった。第二日は、六時の起床、ラジオ体操から日程が始まった。この日は柊日フリーテニス、午前中はタブルスによる練習、午後は各グループによっての試合で第一位から四三位まで決まる熱戦であった。その後はお待ちかねのバーベキュー、激しい運動の後だけに揃えられたこちそうの焼けるのが待ちどおしいほどの健嘆ぶり、薄暮の頃まで大いに食べかつにぎやかに語り続けた。終わりは秋の夜空を焦がすほどのキャソプファイヤー、現代学生気質を反映しての出し物にはやんやの喝釆、秋の夜の更けるのも忘れるほどであった。第三日日は、八子ケ峰(一八七八)登山。八子ケ峰は蓼科山、八ツ岳に近く、遠く中央アルプス、北アルプスなど眺望絶佳の高原でありハイキングコースとしては絶好の地と言えよう。全体として楽しく意義ある教室であった。
学園祭
展示・催し物の会
本年度の学園祭は、創立五十周年を記念して開催されることとなり、その一環として短期大学も参加すべくプランを練っている。しかし、学絞暦変更のこともあってスタートがやや遅れ、後期開始が九月一九日(月)であったので、それから、会議、調整などを行い大要次のとおり原案をまとめた。以下主な題目を示すこととする。
調理部では、食堂のほかケーキ・クッキー類の製造販売。音楽部は、喫茶店「ミッキーマウス」。マンガ研究会は、自作の展示。写真部は、喫茶店。チェス部ではおでんの販売。卓球部は、焼そば販売。バトミントン部は、喫茶店「山小屋」など。各クラブ大いに張切っている。
研究室の関係では、人文教育研究室は、「東京文化学園五十年史資料展」を行う。自然科学研究室は、「私達が興味をもって調べていること」。栄養指導研究室は、「本学における栄養指導実習(校内校外実習)の環状」を展示。栄養学研究室は栄養相談のほかビタミソCの含量、妊産婦の食事並びに嗜好に関する実態調査を展示。食品学研究室は、「食生活の五十年」を展示。家政学研究室は、「自閉症児をめぐって」、「社会に生きる新しい女佐像を求めて」など。
50年前の食生活
「文化生活」の特集によせて
今年の『文化生活』は、「文化生活と文化生活運動の五十年」を特集としている。短期大学の現有スタッフが、それぞれの分野を担当して、五十年前から残されている記録の書誌的な評価を発掘しようという試みである。
もの中の食生活分野を担当することになり、改めて五十年前の資材を見直す機会をもったことは幸いであった。
ちょうど五十年前、一九二七年という年はどんな年だったろうか。いま年表をくると、さまぎまの事件が目にとまる。四月には全国で銀行の取付けが激化して、十五銀行が休業に追いこまれた。このあとやってくる深刻な不況に先がけた暗い伏線をそこにみることができる。七月には芥川龍之介が自殺する。十二月には東京の地下鉄が浅草、上野間に開通している。
『文化生活』や『文化生活研究』に収録されている食関係の記事の中には、解説もの、ルポルタージュ風のもの、実用記事などいろいろあるが、中にアンケート形式で当時の名士の食事のありさまを聞き出したのがある。哲学者の田辺元氏夫人がよせた回答には「昼はパン、果物、夜は和洋とりまぜ一皿少量の葡萄酒…」とある。今でこそブームといわれるほどのワインであるが、当時、夕食にこれをたしなんでいた人たちがごく僅かはいたことがわかる。また、ある教授夫人は「主人は全く食物というものに興味を持ちません・・・食膳にどんな御馳走が並んでも別に喜んだためしなく、またどんな粗末なものが載っていても不足を聞いたことがありません」と答えている。
往時の日本の知識階級の食事観を示していておもしろい。
先達によって残された『文化生活』の各号にはこのように当時の食生活の豊富な記録がある。
それにしても残念なことは、いったん休刊となり、太平洋戦争後に復刊された『文化生活』は僅か三号で刊行できなくなり、この時代の食の記録がほとんど残されていないことである。もちろん、それに先がけた戦争さ中の食の記録は、まったくない。
たまたま、昭和になってからの食生活の歴史を整理する仕事があ。て、戦争当時の食糧の配給量などの記録を採していたのだが、この時期、『文化生活』が刊行されていなかったことは今にしてもまことに残念である。
短大教授 沢野 勉
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