-8- 第252号 | 昭和52年10月11日 |
寄稿
思い出の学園生活
青春の回想
柳澤芳子
私が中学に入学したのは、戦後間もない昭和二十三年春。当時は私服での通学が許されていました。制服を着用したのは二年生になってからと記憶しています。その後、昭和二十五年の学制改革により、東京女子経専が東京文化学園とし.そ、校名、校章、内容等全てが大きく変貌をとげました。その間に森本厚吉校長のご他界という悲運に違いながらも、着実に発展していった学園の中で送った六年間、様々な出来事が浮んでは消えてゆきます。
当時から視野を広く、自主的学習をと言う見地からか、校外学習や芸術鑑賞が取り入れられていました。
中学時代、社会科の授業の一環として、現在の迎費館(当時国会図書館として一部利用)へ見学旁利用しに行きました。玄関から階段へと赤い絨毯を踏んで入った室内は、数多くの書籍の宝庫でした。
高校時代も、芝居、映画、展覧会等芸術鑑賞の場は多く、特に日展(現在の日展とは系統を異にしているようですが)見学の折、書道のご指尊をしていただいておりました、亀井先生の作品がご入選されて展示されておりました。作品の前で清堂の落款を拝見した時、胸の奥がじんと熱くなったのを今でも憶えています。
高絞最後の国語テスト問題に、「人形の家」のノラについて感じた事を書きなさい、とありました。
六年間育った学舎を巣立つにあたり人間として、女性としての自覚を問われたのでしようか。学窓を離れて二十余年経った今も心の片隅に青春時代の問いかけとして残っています。
自然に身についた三H精神でもそれを生かして生活してゆくこことは努力なくしては出来ないと実感しています。次の世代の娘へ、その開花を期待しているこの頃です。
(30年季業)
「らしくあれ」
山端道子
私の中高時代は、森本静子先生の学園長の時でした。
一過間の朝礼に必ず一回は学園長の時間があり、長扁小説「ヘレンケラー」「キュリー夫人」など、朗読して下さったり、時局の話など、その時々によりバラエティーに富んだ話題で楽しませていただきました。
その朝礼のお話の中で、今も心に残る言葉が一つだけあります。
それは「らしくあれ」ということです。中学生は中学生らしく、高校生は高校生らしい態度で生活しなければいけない、というお話しだったと思います。当時はそれに反一発しないでもなかったのですが、先生方の御指導のもとに中高短大と無事過ぎることができました。
さて、結婚、出産、転勤と世間が広くなるにつれ、この「らしくあれ」のむずかしさがいかに大変なことかが解りはじめました。
人それぞれに「らしく」の広さが違ってきます。あまり広くなれば「らしく」なくなりますし、狭ければつまらない生活になってしまうと思います。時々子供から「お母さんらしくない」と云われます。
それは家事の手を抜き他の事に熱中する時とか、若やいだファショソをする時です。たまにはいいではありませんか。次の日には、子供の目で見るいいお母さんにもどります。
私は今、自分の考える母親らしく、妻らしくありたいと努力しています。これからもいろいろなことに出合っ時、この「らしく」から大きく踏み出さず「らしくありたいlと一願っています。
(27年卒業)
職員室の融和
阪本浅之助
中学校の職員室の気風はすこぶる楽しいものでした。一番私の気をつかったのは職員室の融和といっことでした。職員室の気風が整ってくると自然と聴員室の風といっものができるのです。職員室の風が明るくなると教育の実は自然にあがってきます。要は教育の効果があがるということです。
それから毎朝の図書室の授業前の祈顧と聖審の研究、こんな楽しいことはなかった。百何人も集って讃美歌を合唱し祈頑し聖書の研究をし、さあみんな今日も楽しく勉強しようと教室へ帰っていくのを送る気持は格別に楽しい。これを始めたのは河井煕子の提案である。午後はみんな集まれないから朝に集まろうといいだしたのが成功したのであった。これには中学校も高校も加わった。高校の先生の中には高校の教師があたるべきで他の先生がこれに参加するのはけしからんというのもあったことは知っていた。しかしあの様に真剣に熱心に集まるのを断わることはできない。断われば断わるほど集まるのが人情である。こうして教室に帰る姿を見ては益々一生懸命にならざるを得ない。私は楽しげに語らいながら帰る後姿をどの位仕合せだかわからぬと見送った。
(旧職員)
個性ある教師
岸 恵子
職員室は面白く、楽しい人だらけでした。高校時代の先輩のお母さんが副主事で、着流しの着物姿で出てこられたり、小笠原流の授業をなさりながら、教卓の影で、足で足をかくという芸当もやっておられました。中学時代の担任の恩師にあたられるオタクイのどなる声、宮家に出入りなさる書道の先生、自転車で通勤される文北生え抜きの.バイタリティあふれる女丈夫先生とタソヂ→な美術の先生は素敵な御夫婦でした。ひばりの声の体育の先生、素杯な一言居士、たぬきにもぐらにキツネにゴリラ、光源氏にうすばかげろう・・・・いろいろな人が混っていて、いろいろな個性を発揮しながら、お互いを許容しあっているゆったりした所がありました。”坊ちゃん”にでてくるような渾名がちゃんとつけられるのです。それだけの人物、役者が揃っていたという事です。
仕事の上では各々が対等、という感覚でしたから、けんかもありましたが、その人の事がより、わかるようになりこそすれば後くされ等ありませんでした。いろいろな世代の人達と共に仕事をする楽しさは大きく、そんな人間関係が得られた事は、本当に幸福だったと思います。
(旧職員)