想ひで玉手箱


当初企画としては「野尻の古い写真館・貴方は何処かな?」(仮題) だったのですが、“想ひで”は写真だけではもったいない。
…と、いうわけで、その他の資料も入手・整理次第随時掲載します。
皆さんのキャンプネームは覚えて居るのですが、本名を失念している 人物もいるので、お判りになる方は教えてください。

また、このコーナーに ご提供いただける写真がありましたら、発行人:栗田秀樹 までご連絡ください。
使わせていただいた写真は責任を持ってお返しいたします。

ご覧になりたい画像のサムネイル(縮小表示)か題名をクリックしてください。


懐かしのキャンプエルフィンストン


1991 クラブピクニック特集



現役リーダー 鎌田真寿クンによる「2000年 リーダー似顔絵」

リーダー似顔絵
だれですか?「オレはあんなのじゃない!」なんて言ってるのは。
そっくし、ですよ。 素直に認めて楽になりなさい。


1996年?クリスマス拡大幹事会 AT モモ


私の勲章コレクション 学荘のバッヂ


第32・33回野尻学荘 生活のヒトコマ より


第38回野尻学荘しおりより


特集・ 1988年野尻学荘


野尻1970年代(後半?)の写真です。

お笑い3人組 「お笑い三人組?三馬鹿大将?」

右より 小池サンこと持田修氏。あたまいつもボサボサね。
  ムササビィー! なる芸で一世を風靡した。
手前 セーチャンこと上野誠一郎氏。当時からお上品ね、ウフフ。
  朝の体操で一世を風靡し、誰もが彼のマネをした。
クリキンこと栗田秀樹氏。ひ、ヒゲだぁ。
  どうもリーダーになるとビゲを生やす人がいて困るんだな。
撮影者  井狩利一氏。この人、今でも全く同じ顔してるんだよ。


番外編・ 遠藤正重さん&河野琴美さん結婚披露宴にて

1990年9月・於ホテルオークラ:4枚あります。

注:サムネイルではなく、フルサイズ画像を表示します。


野尻1964の写真です。

自宅で書類の整理をしていたら、恐ろしい物が出てきてしまいました。
1964の想い出帳です。
1964ったら東京オリンピックの年ですよ。
当時私は小学生ですから、これは何かの資料で貰った物でしょう。
なにが恐ろしいって…目次を見ると…
U栗信*、M本晴*、O川次*、M井利*、O見清*、N目武*、U栗太*、I井*、M本光*、J保伊和*、…等の方々名前がキャビンリーダーに並んでいます。
N目リーダーのキャビンには我らがF本画伯の名前まである…

あまりの畏れ多さについ土下座しながらスキャニング作業してしまった編集者でありました。

すべての写真には何のキャプションもありません。
詳細をご存じの方は、キツツキ企画
発行人:栗田秀樹
または
編集人:石井宏実 までご一報ください。

桟橋のカヌー? 「桟橋のカヌー?」

グリーンチャペル 「グリーンチャペル」

アウティング?? 「アウティング??」

さて?これは…?? 「さて?これは…??」

バスケットボール?? 「バスケットボール??」

実修?不明だ?? 「実修?不明だ??」


早速これらの写真についての情報をいただきましたので全文掲載します。


Subject: 1964年の写真

石井宏実さま 栗金丹さま  CC:コタロオさま

  コアマから

想ひで玉手箱の1964年の写真は、私のよく知っているものでした。

桟橋のカヌー は、そのとおり。

グリーンチャペル も、そのとおり。

アウティング は、妙高登山(オーバーナイト・ハイキングと言っていました。)をして、多分、妙高頂上でのハイズカです
顔は分からないが、高校生です。コタロオに確認してください。

さて、これは は、多分、YWCAとの交換会です。
右よりの黒いセーターは、岡見清明リーダー、
左に1人おいて佐脇恒和アシスタント・リーダー(多分)です。
中間の人はYWCAの人らしい。

バスケットボール で、シュートしているのは伊藤信吾リーダー、その右後ろは高校生の佐々木啓祐さんです。

実習、不明 は、湖畔での飯盒炊餐で、左端は百瀬リーダーかもしれない。
このころはアシスタントかな。

写真の原板を見ると、もっと分かるでしょう。


「多分、妙高頂上でのハイズカです」

確かに…手の位置や姿勢を見ると、そんな雰囲気ですね。

「実習、不明 は、湖畔での飯盒炊餐」

言われてみれば、これはまごう事なき飯盒でありますな。
なぜ気づかなかったんだらふ…。


野尻での1975と思われる写真です。

固定桟橋でたそがれる6人 「固定桟橋でたそがれる6人」

後列左から 石川氏 黒田氏 高杉氏
前列左から 野見山氏 葛和氏 佐藤氏

みんなタスキしてるし、高杉氏は襟のあるシャツですね
なにか正式なセレモニーの日だったのかな?
浮き桟橋のポールはこの頃に木製の杭からコンクリに 変わりました。なかなか地球に対して直角に打てなくて 斜めになったりして大変でした。

背後に少し霞む竜宮の鼻。
ここは怪談のメッカでしたね。
当時より少し以前に学荘で流行った「怪人田尻ハナ」もいつの 間にかここで活躍している事になっていましたっけ。
あの話は誰が創作したのかしらん。(傑作だった)

えっ?創作だったの?…
(いかにもなリアクション:石井)

確か中学生の、青山でのオーバーナイトが発端だったかな?
当時の思い出帖にも「田尻ハナ」は多数書いてあります。

ファイヤープレイスのお調子者 「ファイヤープレイスのお調子者」

後列左から 高杉裕氏(長髪だね。ニールヤングが懐かしい)
佐藤マンタ氏(NGオリジナルアポロ帽・ネーム入り)
野見山芳正氏(紅いバンダナが最先端)
前左 栗田秀樹氏(紅い鼻緒の雪駄・ウケねらいがハズレ)
最前列 黒田佳男氏(流行のリーガルモカシンシューズ)

佐藤マンタ氏の本名は佐藤賢治君。前の写真の葛和氏は葛和秀雄君です。
野尻学荘関係で葛和姓は一人、佐藤姓は38名がそれぞれいます。 (コタロヲ)

カッター実修のクルー+1 「カッター実修のクルー+1」

後列に黒田佳男氏と石井宏実氏。
それに挟まれた前に栗田秀樹氏です。

これはおそらくカッター実修のクルーですね。
黒田氏はアシスタントで栗田氏と一緒にカッターの 実修担当でした。
石井氏はなんでいるのか判りませんがゲストか何かで クルーに参加したのかもしれませんね。
(石井氏は記憶にあるか?)

カッターが大好きだったんです。(そんだけ:石井)

Y15 「Y15」

昔のゲストあたりからの撮影かな?
ゲストの別荘あたりかな?
いやもっと下だな。
どこだらう。
学荘の木製ディンギーが現役だったころ、Y−15はピカピカの 最先端艇だった。
ディンギーからY−15に乗り換えたとき、キャデラック(時代だねぇ) に乗ったような高級感を覚えたものである。
しかし今思うとディンギーは良い船だった。
クラッチなんか付いていてね。
アレはパドリングの苦労をしなくても済む優れた装備だった。
ガフを切り替えるときの音もとても風情があってね。
ヨットの実修書に「ガフをガフッと変える」とあったっけ。
ったく、誰が書いたのだらうか。(本間正久氏あたりが怪しい)

ディンギーに日傘をさしたご婦人を乗せて湖面を一巡り・・・
してみたかったなぁ。


ヨット教本より

ヨット実修教本 「ヨット実修教本」

人物じゃないけど、懐かしいヨットの教本
1968年? ヨット実修教本より抜粋しました

実修指導リーダー 伊藤敬洋 本間正久

全て手書き、全て手刷りの手作り教本でしたね

Yの会議室の脇の狭い印刷室で刷っていました
ディプロのアルコールの匂いがキツイ部屋でした
(アレの本名はディプロじゃないそーです)

台風の日、伊藤ケーヨー氏が一人でハーネス着けて Y−15を浪の頂上から頂上へ飛ばせていた勇姿 を今でも鮮明に覚えているなぁー
あれはカッコーよかった
(よいこはマネをしないようにね)

いまは無きA級ディンギー 「いまは無きA級ディンギー」

木製艇でペンキを塗ってありましたね
金属のクラッチが付くようになっていて オール2本で漕ぐことが可能でした
ガフが付いていることろがナンとも味わい深い タックするたびにガフを切り替えるんですわ
ある人物は「ガフをガッフと替える、と覚えましょう」 なんてしょーもないコトいっていましたっけね

Y−15 「Y−15」

学荘では最先端のスマートな艇形でしたね
まるでスポーツカーのようなイメージでした
平らな形が安定感じを連想させますが、みなさん 簡単にチンさせてましたっけねぇ
なかなか起こせなくて結局救助艇を待ってたりして
(水場のリーダーは大変だったね)

ジャイブさせた途端に湖水に転げた人物もいました
ブームパンチを喰らった人もいました
センターボードを落としちゃった人もいました
だけどヨットに乗る喜びは代え難いモンでしたね

A級ディンギーのフィッティング 「A級ディンギーのフィッティング」

指導リーダーはこんなの毎年書いていたんです
私も読んだはずなのだが全て忘れてしまった
でも、ヨットで「ルールの必要性とその根拠」 を教わりましたね

歩道を走る自転車を準動力船と見なせば、歩行者は 泳者であるから歩行者優先だわ・・なんて今でも思う
ましてや100馬力以上の動力船である自動車にいた っては、大きな顔して運転なんかできないのだわ


当ぎゃらりぃに掲載した写真等の著作権は野尻学荘クラブに帰属します。
学荘クラブに無断で転載または複製その他の利用をすることは禁止します。

(C)1999 野尻学荘クラブ


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