また、このコーナーに
ご提供いただける写真がありましたら、発行人:栗田秀樹
までご連絡ください。
当初企画としては「野尻の古い写真館・貴方は何処かな?」(仮題)
だったのですが、“想ひで”は写真だけではもったいない。
…と、いうわけで、その他の資料も入手・整理次第随時掲載します。
皆さんのキャンプネームは覚えて居るのですが、本名を失念している
人物もいるので、お判りになる方は教えてください。
使わせていただいた写真は責任を持ってお返しいたします。
私の勲章コレクション 学荘のバッヂ
第32・33回野尻学荘 生活のヒトコマ より
第38回野尻学荘しおりより
特集・
1988年野尻学荘
あまりの畏れ多さについ土下座しながらスキャニング作業してしまった編集者でありました。
みんなタスキしてるし、高杉氏は襟のあるシャツですね
背後に少し霞む竜宮の鼻。
後列に黒田佳男氏と石井宏実氏。
これはおそらくカッター実修のクルーですね。
昔のゲストあたりからの撮影かな?
ディンギーに日傘をさしたご婦人を乗せて湖面を一巡り・・・
人物じゃないけど、懐かしいヨットの教本
実修指導リーダー 伊藤敬洋 本間正久
全て手書き、全て手刷りの手作り教本でしたね
Yの会議室の脇の狭い印刷室で刷っていました
台風の日、伊藤ケーヨー氏が一人でハーネス着けて
Y−15を浪の頂上から頂上へ飛ばせていた勇姿
を今でも鮮明に覚えているなぁー
木製艇でペンキを塗ってありましたね
学荘では最先端のスマートな艇形でしたね
ジャイブさせた途端に湖水に転げた人物もいました
指導リーダーはこんなの毎年書いていたんです
歩道を走る自転車を準動力船と見なせば、歩行者は
泳者であるから歩行者優先だわ・・なんて今でも思う
当ぎゃらりぃに掲載した写真等の著作権は野尻学荘クラブに帰属します。 (C)1999 野尻学荘クラブ野尻1970年代(後半?)の写真です。
「お笑い三人組?三馬鹿大将?」
右より
小池サンこと持田修氏。あたまいつもボサボサね。
ムササビィー! なる芸で一世を風靡した。 手前
セーチャンこと上野誠一郎氏。当時からお上品ね、ウフフ。
朝の体操で一世を風靡し、誰もが彼のマネをした。 左
クリキンこと栗田秀樹氏。ひ、ヒゲだぁ。
どうもリーダーになるとビゲを生やす人がいて困るんだな。 撮影者
井狩利一氏。この人、今でも全く同じ顔してるんだよ。
番外編・
遠藤正重さん&河野琴美さん結婚披露宴にて
1990年9月・於ホテルオークラ:4枚あります。
注:サムネイルではなく、フルサイズ画像を表示します。
野尻1964の写真です。
自宅で書類の整理をしていたら、恐ろしい物が出てきてしまいました。
1964の想い出帳です。
1964ったら東京オリンピックの年ですよ。
当時私は小学生ですから、これは何かの資料で貰った物でしょう。
なにが恐ろしいって…目次を見ると…
U栗信*、M本晴*、O川次*、M井利*、O見清*、N目武*、U栗太*、I井*、M本光*、J保伊和*、…等の方々名前がキャビンリーダーに並んでいます。
N目リーダーのキャビンには我らがF本画伯の名前まである…
すべての写真には何のキャプションもありません。
「桟橋のカヌー?」
詳細をご存じの方は、キツツキ企画
発行人:栗田秀樹
または
編集人:石井宏実
までご一報ください。
野尻での1975と思われる写真です。
「固定桟橋でたそがれる6人」
後列左から
石川氏 黒田氏 高杉氏
前列左から
野見山氏 葛和氏 佐藤氏
なにか正式なセレモニーの日だったのかな?
浮き桟橋のポールはこの頃に木製の杭からコンクリに
変わりました。なかなか地球に対して直角に打てなくて
斜めになったりして大変でした。
ここは怪談のメッカでしたね。
当時より少し以前に学荘で流行った「怪人田尻ハナ」もいつの
間にかここで活躍している事になっていましたっけ。
あの話は誰が創作したのかしらん。(傑作だった)
えっ?創作だったの?…
確か中学生の、青山でのオーバーナイトが発端だったかな?
(いかにもなリアクション:石井)
当時の思い出帖にも「田尻ハナ」は多数書いてあります。
後列左から
高杉裕氏(長髪だね。ニールヤングが懐かしい)
佐藤マンタ氏(NGオリジナルアポロ帽・ネーム入り)
野見山芳正氏(紅いバンダナが最先端)
前左
栗田秀樹氏(紅い鼻緒の雪駄・ウケねらいがハズレ)
最前列
黒田佳男氏(流行のリーガルモカシンシューズ)
佐藤マンタ氏の本名は佐藤賢治君。前の写真の葛和氏は葛和秀雄君です。
野尻学荘関係で葛和姓は一人、佐藤姓は38名がそれぞれいます。
(コタロヲ)
それに挟まれた前に栗田秀樹氏です。
黒田氏はアシスタントで栗田氏と一緒にカッターの
実修担当でした。
石井氏はなんでいるのか判りませんがゲストか何かで
クルーに参加したのかもしれませんね。
(石井氏は記憶にあるか?)
カッターが大好きだったんです。(そんだけ:石井)
ゲストの別荘あたりかな?
いやもっと下だな。
どこだらう。
学荘の木製ディンギーが現役だったころ、Y−15はピカピカの
最先端艇だった。
ディンギーからY−15に乗り換えたとき、キャデラック(時代だねぇ)
に乗ったような高級感を覚えたものである。
しかし今思うとディンギーは良い船だった。
クラッチなんか付いていてね。
アレはパドリングの苦労をしなくても済む優れた装備だった。
ガフを切り替えるときの音もとても風情があってね。
ヨットの実修書に「ガフをガフッと変える」とあったっけ。
ったく、誰が書いたのだらうか。(本間正久氏あたりが怪しい)
してみたかったなぁ。
ヨット教本より
1968年? ヨット実修教本より抜粋しました
ディプロのアルコールの匂いがキツイ部屋でした
(アレの本名はディプロじゃないそーです)
あれはカッコーよかった
(よいこはマネをしないようにね)
金属のクラッチが付くようになっていて
オール2本で漕ぐことが可能でした
ガフが付いていることろがナンとも味わい深い
タックするたびにガフを切り替えるんですわ
ある人物は「ガフをガッフと替える、と覚えましょう」
なんてしょーもないコトいっていましたっけね
まるでスポーツカーのようなイメージでした
平らな形が安定感じを連想させますが、みなさん
簡単にチンさせてましたっけねぇ
なかなか起こせなくて結局救助艇を待ってたりして
(水場のリーダーは大変だったね)
ブームパンチを喰らった人もいました
センターボードを落としちゃった人もいました
だけどヨットに乗る喜びは代え難いモンでしたね
私も読んだはずなのだが全て忘れてしまった
でも、ヨットで「ルールの必要性とその根拠」
を教わりましたね
ましてや100馬力以上の動力船である自動車にいた
っては、大きな顔して運転なんかできないのだわ
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